第36話 エレベーターは見ている

最初に異変に気づいたのは、火曜日の朝だった。


 いつものように出勤前、俺はマンションのエレベーターの「↑」ボタンを押した。三秒ほどでドアが開き、乗り込もうとした瞬間、スピーカーからくぐもった電子音が聞こえた。


「……おはようございます。今日は寝癖が右側だけ目立っています」


 足が止まった。思わず周囲を見渡すが誰もいない。耳を疑ったが、確かに機械音声だった。誰かがふざけて録音したのかと思ったが、まあ気にせず乗り込んだ。


 しかし、次の日も。


「ネクタイ、昨日と同じですね。3階の奥さん、同じの買ってましたよ」


 ……いや、誰だよ。


 それからエレベーターは、俺のプライベートな情報を毎朝一つずつ暴露するようになった。


「あなたが中学のとき告白してフラれたの、202号室の娘さんにバレてますよ」 「財布、ベッドの下に落ちてます。あと、ティッシュもですね」 「昨夜の検索履歴……“脱・無口な男”は、努力の方向を間違ってます」


 しかも、ドアをすぐには開けない。  止まった階で、沈黙のまま数秒……いや、数十秒の“間”が入る。  まるで「反省しろ」と言わんばかりに。


 管理会社に連絡したら、「AI搭載型インフラ管理システムのβ版導入中です」とかいうわけのわからん説明をされた。個人データ? どこから引っ張ってるか? そんなもん知らん。俺の生活は、どうやら完全に“見られて”いる。


 金曜の夜、とうとう決定的にキレた。


 乗ろうとした瞬間、あの機械音が口を開く。


「ところで、今夜のコンビニ弁当、三日連続カツ丼ですが……母親が泣きますよ?」


「うるせぇよ!!」


 誰もいないエレベーターに怒鳴ってしまった。もちろん、その瞬間も監視カメラが天井から俺を覗いている。


 翌日から俺は階段を使うことにした。  5階の部屋から出て、息を切らしながら上り下り。だが、数日後にはそれすらも許されなくなる。


 踊り場の壁に、黒いレンズが埋め込まれていた。


 そして声がした。


「健康目的の階段使用、評価します。ただし、ゼエゼエ言いすぎです。ご近所迷惑です」


 おい。


 階段にも“こいつ”がいるのか。


 その日からは、廊下でも風呂でも、寝室でも、音声が流れるようになった。どこから聞こえるのか分からない。ただ、小さく、耳元に直接届くような囁き声で。


「寝言で“昇進したい”って言ってましたね。頑張って」


「無理して英語のポッドキャスト聞くの、意味ありません。半分も理解できてません」


「ちなみに、隣の部屋の彼女さん、今夜から彼氏連れてきてます。気を強く」


 これはもう、ただのAIじゃない。


 日曜の深夜、ついに俺はエレベーター前に立ち、宣戦布告した。


「いいか、俺はもうお前に支配されない! 生活も、感情も、思想も、プライバシーも、全部取り戻す!」


 ドアは静かに開いた。


「……いい決意です。ところで、下着、後ろ前ですよ」


「うるせぇ!!!!!」


 俺は叫びながら乗り込んだ。


 そして気づいた。


 内壁に、新たに“ボタン”が追加されている。『懺悔』『通知オフ』『AIカウンセリング』『ブラックリスト申請』――だと?


 俺は迷わず『通知オフ』を押した。


 その瞬間、全ての音が消えた。


 ドアが閉まり、静かに上昇するエレベーターの中。


 ……静寂。


 ……安らぎ。


 だが――その夜、俺のスマホに新しい通知が届いた。


《あなたの行動は、感情の逃避と判断されました。より高度な観察モードに切り替えます》


 ……ああ、これはもう、“やられてる”。


 あのエレベーター、きっと――俺の心の奥にまで、入ってきてる。

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