間章
罪-0
『そのまま――――死んでも、いいのか? 貴様』
――――ティナ・メルマンナを殺したのは、醜く貪欲な本能に抗えなかったからだ。
褐色の肌に、赤いポニーテール。教科書で見た原始人そのままな服装をした彼女は、頭から致死量の血液と脳漿を垂れ流し、二度と動くことはない。数秒前まで生きて考えて動いていた人間を、物言わぬ肉塊に変えた俺は、鉄臭い息を断続的に吐いていて、溜息なんて吐いていられなかった。
2年間、この女には連れ回された。
情事の最中に恋人を絞め殺したというティナは、そうしなければ絶頂できない倒錯者だった。俺を襲う時も決まって首に指を食い込ませてきて、お陰でくっきりと首には痕が残り、毛細血管が爆ぜたのか眼は四六時中充血していた。
それでも、親に売られて、人買いが食われて、それから独りで生きてきた俺には。
離れがたい奴だった。
ティナがいなければ、猛獣に襲われて死んでいた場面が、幾度もあった。
――――今は、そんなティナによって、死に瀕している訳だが。
『聴け、人間。貴様、ここで死なせるには、些か惜しい。貴様の技術に、吾は興味がある』
胸に、いくつ穴が開いているだろうか。
今日狩った猛獣の肉に、興奮作用のある成分でも含まれていたのだろう。異様に昂っていたティナは、首を絞めるだけでは飽き足らず、ナイフで何度も、何度も何度も何度も何度も、俺のことを刺してきた。
腹も、胸も、喉も、左眼も。
じくじくと熱く、痛み、もう膿んでいるかのように不快感が広がっていく。
――――死ぬだろう。俺は、もうここで、再び。
1度目が楽に死ねた罰だろうか――――2度目の死は、酷く痛く、長引いていて。
地鳴りのような幻聴までもが、脳をガンガンと揺らしてきて、傷に響く。
『幻聴ではない。っ……こちらを、見ろ。人間。互いに、利のある話だ』
「…………?」
声帯を貫かれた喉は、いくら力んでも掠れた息しか吐き出さない。
だから、頭蓋にガンガン響く声へ返事もできなくて――――こっち、と言われても方角なんか分からないから、取り敢えず、この場で最も近い位置にいる生命体へと、顔を向けた。
――――巨大な、ドラゴンだ。
全長は、低く見積もって20m以上はあるだろう。深緑の鱗をびっしりと生やしたそれは、しかし絵本で見るような荘厳な姿とは、懸け離れた醜態を晒している。
首が大きく裂け、赤紫の血を未だどくどくと流し続け。
手足は根元から寸断され、翼は無惨なくらいに穴だらけ。
……俺と、このドラゴン、死ぬのが先なのはどちらだろうか。――――未だに、信じがたいことだ。他の猛獣と争っていたところを漁夫る形とはいえ、俺とティナが、こんな大物を狩り落とすだなんて。
だが――――全部、無駄な話だ。
ティナは死んだ。俺が殺した。そして俺も、間もなく死ぬ。
あぁ、血が足りない。チカチカと、目の前が明滅し、薄ぼやけてくる。
『無駄ではない。……吾も、死ぬのは御免被りたい。斯様に美味そうな肉を前にして死ぬなど、無念でしかない……人間。貴様もそうだろう……? 死を厭うのは、生物としての本能だ。……生きたいだろう? 生きたいはずだ……!』
「…………」
死にかけのドラゴンは。
死にかけの俺に向けて、なにやら必死に、語りかけてくる。
『加えて……貴様には、生きる価値がある。「リョーリ」と言ったか……? あのような技術、この世界にはないものだろう。興味深い。吾は人の肉しか糧にできぬが…………貴様が手を加えれば、より美味く味わうこともできよう』
パチパチと、焚火の爆ぜる音がやけにうるさく、遠い。
……生きる価値、ね。
ドラゴンという幻獣は、作品によって随分扱いが違う。粗暴で野卑なだけな場合もあれば、理知的で道理を解し、魔法まで使えるパターンもある。
会話までできるということは、どうやら後者らしいが――――おつむの出来は、そこまでよくはないらしい。
俺に、生きる価値なんかないよ。
前世でも、今世でも、ずっとそうだ。
そういう風に、決められてきたんだ。
『……吾の魂と、貴様の魂。ふたつを融合させ、命を共有のものとすれば――――吾も貴様も、この傷から脱せられる。生きられるのだ。美味い肉が食える……それに勝る喜びがあるか……?』
食事が美味くて、それがなんになる?
糞みたいな人生が、多少マシになるだけだ。生まれてこなければよかった苦しみが、ほんの小さな点で見えづらくなるだけだ。
死ぬなら、終わるなら、終われるのなら。
俺はもう――――疲れてしまった。
……けど。
『貴様、は……色狂いの女に、刺されて死ぬという最期で、いいの、か……? っ……悪の手に落ちる死に様で、構わないのか? 貴様の人生はっ、悪に蹂躙されるためにあったのか!?』
「っ……!」
声も出ず、代わりに口から真っ赤な血が吐き出される。
いいのかって? 構わないのかって? 俺の人生が蹂躙されるためだったのかって?
――――あぁ、そうだよ。そうだったんだ。そういう風に決められたんだから。
けど――――それに文句がないとは、決して、思わない!
『……あぁ、いい目だ。悪逆に、暴虐に、なお抗い続ける不撓の目だ』
ばちっ、ばちっ、と壊れた映写機みたいに。
途切れ途切れになる視界の中で、ドラゴンが、にたりと笑ったような気がした。
『さぁ、吾と共に、悪を食い物にしよう! 貴様は、吾の好む悪逆なる人間を、好き放題に捌けばいい! 吐き気のする程に善なる貴様には、その資格があろうよ!』
……あぁ、意識が途切れる寸前に、思い出す。
前世での、子供の頃の夢。正しくあれ、真っ当であれと、口酸っぱく教えられては殴られていた、あの頃の願い。
もしも悪がいるならば、それを裁き正す人間に、俺は、なりたかったんだ。
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