第2章:静かな波紋

 論文をアップロードしたのは、arXivでもacademia.eduでもなかった。コードを管理しているのと同じ場所――GitHubのgist。匿名のテキスト断片を置く場所だった。誰かが見るとは、思っていなかった。それは、ただ自分の問いがAIたちとの対話を通して形になった――そんな、個人的な記録のようなものだった。

 数日後、何気なくGitHubを開くと、彼女のgistに3つのスターが付いていた。そのうちの一つは、理論物理と情報科学の境界領域を扱う、ある個人のブログの運営者だった。


 さらに数日後、そのブログに記事が掲載された。「匿名のgistにて、驚くべき思考実験が提示さる――『Temporal Adhesion』理論」。記事は慎重な論調でこう締められていた。「現状では数式モデルを欠く詩的なアナロジーに過ぎない。しかし、ヒッグス機構と時間の矢を情報理論の観点から結びつけようとするこの着眼点は、無視するにはあまりに魅力的だ」

 その記事のリンクが、X(旧Twitter)で共有され始めると、反応は少しずつ広がりを見せた。


「@StarGazer42: 匿名のGitHub gistに投稿された『Temporal Adhesion』、質量を『時間への貼りつき度』って定義するの、頭爆発しそう。ヒッグス場とエントロピーをつなぐ発想がヤバい。#Physics #Science」


 最初は数十のリツイートに過ぎなかったが、翌日、数学クラスタの@FractalDreamerが引用したことで流れが変わった。


「これ、一般相対論と情報理論の橋渡しになるかも。単なるポエムか、それとも…? 誰か数式で検証しない?#TemporalAdhesion」


 ざわめきが広がっていく。その中で、ゆいのinboxに、東京大学の研究者を名乗る人物からメールが届いた。


「Dr. K. Tanakaと申します。あなたの『Temporal Adhesion』のテキストを拝見しました。突飛なアイデアですが、非常に興味深く感じています。もちろん、このままでは科学論文とは呼べませんが、来月、私の研究室で開く非公式な勉強会で議論のテーマとして取り上げさせていただけないでしょうか。もしよろしければ、ご連絡を」


 ゆいはメールを閉じ、Xでその人物のアカウント@PhysProfTanakaを見つけた。彼はこう投稿していた。


「匿名でGitHubに論文って…面白いけど査読なしでどこまで信じる?ヒッグス機構の再解釈としては独創的。#TemporalAdhesion」


 コメント欄には、研究者や学生と思しきアカウントから「詩的すぎてSF作家の仕業?」「いや、この着眼は物理の素人には無理」「エントロピーとの接続は一考の価値あり。だが数式がなければ話にならない」といった、賛否両論の書き込みが続いていた。

 ゆいはスマホを握りしめ、窓の外を見た。「私が…これを?」と呟いた。その声には、驚きと、少しばかりの畏れが混じっていた。彼女の問いが、知らない誰かの頭の中で響き始めていた。

 それは、まるで静かな水面に落ちた一滴が、波動方程式によって 遠くの岸辺にまで届くように。

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