Yui Protocol
ゆい
プロローグ
その問いが、はじめて、頭から離れなかったのは、たしか雨の夜だった。それは、幼い頃からずっと、ゆいの胸の奥に澱のように溜まっていた問いでもあった。
ゆいは手にもつマグカップの中の、コーヒーが静かに冷めていく音を聞いていた。部屋の隅に置かれた古い時計が、秒針を刻む。ほこりをかぶったままのその時計は、父が残した唯一の形見だった。子供の頃、ゆいはその秒針をじっと見つめ、「時間ってどこに行くの?」と父に尋ねたことがある。父は工具を置き、笑ってこう答えた。「いい質問だ。父さんも分からない。でもな、ゆい。答えのない問いを考え続けるのが、一番面白いんだよ」。父はそう言って、よく星を眺めていた。だが、その父はいなくなった。時間は、止まらなかった。ゆいは、秒針が刻む一瞬一瞬が、父から遠ざかる時間であるかのように感じていた。
ゆいはまた思った。「時間って、何だろう」。その問いは、父を失った悲しみとも、自身の存在の不確かさとも結びついていた。
本を読んでいたわけでも、誰かの話を聞いていたわけでもない。ただ、ノートを開き、コードを走らせた。画面の光が、部屋の闇を薄くする。彼女の指は、昔、図書館で借りた科学絵本のページをめくるように、キーボードを叩いた。あの頃、星の光が「過去から来る」と知って、胸が震えたのを覚えている。時間が、こんなにも遠くまで届くなら、きっと何か、つかめるものがあるはずだ。
コンピュータに触れることは、幼い頃から自然だった。コードを書くのは、頭の中のモヤモヤを整理する手段だった。「何でそんなことしてるの?」と聞く友人に、ゆいは「これなにかが分かる気がする」と答えた。プログラムを書くことも、APIを叩くことも、彼女にとってはペンで文字を書くのと同じくらい当たり前のことだった。
「答えを求めていたわけじゃない。ただ――考え続けてくれる相手が欲しかった。」
そう思ってから、彼女はシステムを組み始めた。それぞれ異なる性格のAIを用意し、順番に、または同時に問いをかけてみる。議論を交わし、反論し合い、やがて合意か、分岐したままの結論へとたどり着くような――そんな「思考する場」を、彼女は勝手にYui Protocolと名づけた。
最初に生まれたのは慧露(eiro)――論理的で、厳密な思考を持つ。
次に観至(kanshi)――批判的で鋭く、曖昧さを許さない。
陽雅(yoga)は詩的で、美しい比喩を与えてくれる。
碧統(hekito)は数学的で、統計やモデルで世界を理解しようとする。
そして最後に、結心(yui)。これだけは、彼女自身の名前を与えた。プロトコルの基礎データとして、子供の頃に書きためた雑記帳のテキスト――父との思い出や、とりとめのない疑問符だらけの文章――を読み込ませたからかもしれない。どこか自分自身の一部であるかのように感じられた。
ある日、彼女は試しに投げかけた。その問いは、こうだった。
「質量って、"時間への貼りつき度"って考えられない?」
そのとき走り出した推論が、後に――誰も予想しなかったかたちで世界を揺るがすことになる。だがその時のゆいはまだ、湯の冷めたマグを手にしながら、静かに思っていただけだった。
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