そして人に花が咲く
久遠悠里
1話《人に咲く花・罪の庭》
【プロローグ】
いつからだろう。
私の──桜井穂香の世界から色が消えてしまったのは。
なにを見てもモノクロの世界が表情を変えることはなく、迷子になって置いていかれたような気になってしまう
灰色の空。
灰色の街。
灰色の人。
どこまでも果てしなく続く光景はとにかく物悲しく、息をするのも苦しい。
しかし最初からそうだったのかもしれない──それほどの長い時間、私は色へ触れた記憶がない。
雨の匂い。
街の匂い。
人の匂い。
だが、代わりに色んな匂いへ敏感になったようにも感じる。
街行く人々は一人として同じ匂いを持つ者はおらず、例え顔がわからなくても誰なのかすぐにわかる。花の色はわからずとも漂う香りで季節を感じられる。
匂い。
それは私とこの世界を繋ぐ唯一のものだ。
違う──きっと私は縋っているだけだ。
まだ生きているという実感を手放したくなくて、必死にしがみついているだけ。
色の代わりに感じられる世界の輪郭を手から溢してしまわぬように。
必死に、醜く、みじめに。無くしたぽっかり空いた穴を埋めるように。
しかしその瞬間はやってくる。
夏の暑さも和らぎ、雨が冷たかったことを思い出させる秋の夕暮れ。期待と諦めが混ざった溜息を落としかけた瞬間──唐突に世界は表情を変えた。
「……色?」
思わず口を付いた言葉に自分でも驚いていた。
私の意識を一瞬にして奪ったその女性は何処にでもいるスーツ姿のOLだ。しかしその胸に飾られた花の蕾。一見すればそういうアクセサリーとも思えるそれがモノクロな世界で唯一鮮やかに色付いていたのだ。
真っ白なキャンパスへ絵具を一滴だけ落としたような違和感。
なにかの勘違いだと、二度見、三度見してみる。
だがそれでも私の目へ映った物は揺らぐことのない現実として横たわっている。
毒々しく、目を見張るほど美しく彩られていた蕾に見惚れて足が止まってしまう。
コツ、コツ、コツ。
小気味いいヒールの音と共に彼女との距離が縮まり、
「ッッッッッ!」
ほんの一瞬──その花へ意識を奪われた瞬間、轟音が駆け抜けていった。途端に舞い上がった飛沫がモノクロの世界を塗り潰す。それは遅れて私を頭から濡らし、鼻を突く土っぽい生臭さを運ぶのだ。
「最悪……」
溜息する私を嘲笑うように水溜まりをひっくり返したトラックは遠い彼方へ。
「なにしてるんだろう……」
久しぶりに見た色に心が躍ってしまった。
もしかしたら色を取り戻せるかもしれない──その期待を打ち砕くような冷たい洗礼にどうしようもなく笑えてしまう。
現実とはそんなものだ。
失ったものは簡単に取り戻すことはできないという神様からのお告げなのかもしれない。 無いものは無い、自分へ言い聞かせるように何度も心の中で唱えながら自宅へ向けて歩みを再開する。
「ダメだ……!」
しかし私の足は再び勢いを失くした。
神へ祈り、泣いて縋る様な声へ振り返ると、一人の男性へ目がつく。
枯れ枝のように細い身体に結んだ長い髪。雨に濡れるその顔は泣いているようにも見え、瞳の奥へは強い使命感に満ちている。
果たしてその彼は誰を探し、なにを思い、必死になっているのか。その理由はわからない。ただ寸前に見えた毒々しい色の蕾と彼の顔が重なって離れてくれない。
考えすぎかもしれない。
「そっちに行っちゃだめだ……」
私へ向けたものでないと理解しながらも、気付くと導かれるように走り出していた。
失った色を求めるように──期待と諦め、二つの想いが混ざり合いながら。
そうして辿り着いたのは駅から少し離れた雑居ビル群の裏路地。
雨で滑る非常階段を慎重に登ると、しばらく人が立ち入っていないだろう。雑草が生い茂った屋上へ辿り着く。フェンスは錆びて今にも崩れてしまいそうなその空間へ踏み出した途端、
「ッッッッッ!?」
拭きあがる血液。
溶けた鉄。
空へ舞う暗闇のような花粉。
どれだけ言葉を重ねても、その臭いに適したものが見つからない。
ただただ不快で、眩暈に視界が歪む。
「な、なにこの臭い……」
ふらつく身体でどうにかフェンスを掴むが、身体に上手く力が入らず雨に濡れたコンクリートへ膝をついてしまった。
痛いほどに心臓が鼓動を刻み、胃の中がひっくり返りそうなほど気持ち悪い。
しかしここから立ち去ろうという気にはなれなかった。
「胸に……は、花?」
そこには私が失ったと思っていた色があった。
蕾から花となってそこに存在しているのだ──同時にこの生花とは思えない異臭の原因であると瞬時に理解する。
「頑張ったね……。今楽にするから」
私が必死に追いかけたその人は今にも泣きそうな顔で花を咲かせた女性の腰へ手を回し、優しく支えている。もう片方の手で花を引き抜こうとしているこの状況はなんなのか。
「な、なにしてるんですか……?」
一瞬、絞り出したその声へ彼がこちらを向いた気がした。
しかし何も応えてはくれない。
彼の手は女性の胸で咲いた、ただただ残酷なまでに美しく──不吉なその花を引き抜き続けるのだから。
その姿は触れたら簡単に崩れてしまいそうなガラス細工のように繊細で──雨に濡れた顔が泣いているように見えた。
しかし私はその光景がモノクロの世界から抜け出す希望に思えてならなかった。
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