第15話 美咲、踏み入れる境界線

──静かだった。


 まるで、世界そのものが一度息をひそめたような──そんな、張り詰めた静けさ。


 草むらを踏むたび、かさりと音が立つ。制服のスカートの裾が風に揺れて、肌を撫でた。


 物置の前に立ち、扉の取っ手に指をかける。

 ほんの数秒──けれど、その時間が永遠にも感じられた。


「……行こう」


 小さく呟いて、扉を押す。

 ギィ、と重たい金属音が軋みながら響き、わずかな隙間から冷気のような空気が流れ出す。


 家の中とは、まるで違う空気。

 ひんやりとしていて、少しだけ湿っていて、微かに土と金属の匂いが混ざっている。


 ──ぽよん。


 足元でプニが跳ねた。

 いつもと変わらない仕草だけど、その姿がなぜか頼もしく感じる。


「案内してね、プニ」


 美咲がそう言うと、プニはひとつだけ揺れてから、すっと物置の奥へ進んだ。

 その後を追うように、美咲も──足を、踏み入れた。


 


 まず、床が違った。ほんのり湿った土の感触が、スニーカーの底からじわじわと伝わってくる。


 そして、空気の密度。


 重い。湿っているだけじゃない。“空間そのもの”が、どこか濃密だった。

 例えるなら、体育倉庫の奥。窓もない、誰も使わない空間の匂い──それに、もっと原始的な圧迫感が混ざっている。


(……これが、ダンジョン)


 目の前には通路があり、左右の壁はごつごつとした岩肌で、ところどころに苔のような緑が生えていた。


 照明なんてないのに、なぜか全体がほんのりと明るく見えるのは──この空間が“そういう仕様”だからなんだろう。


 プニが先を進む。

 ぽよん、ぽよんと跳ねながら、時折美咲の方を振り返る。


「待ってるの? ……ありがとう」


 ふっと小さく笑みをこぼして、追いつくように一歩を踏み出す。

 

 そのとき──空気が、変わった。


 さっきよりも冷たい。そして、奥からなにか、うごめくような気配。


(なにか、いる……?)


 美咲は思わず息を飲んだ。

 けれど、その正体は見えない。ただ、風も音もないこの空間で、確かに“気配”だけがあった。


 喉がからからに渇く。指先が冷えていく。怖い。でも、もう戻れない。


「兄さんは……こんな場所に、一人で……」

 

(あたしに黙ってコソコソやってるなら、勝手に覗くだけ。文句があるなら、帰ってきてからどうぞ。)


 スマホを取り出し、ライトを点ける。

 白い光が前方を照らし、壁を舐めるように反射する。

 プニの身体も、光を受けて淡く光る。まるで、あたしを導く灯火のように。


 一歩、また一歩。


 怖さは、まだある。けれどそれ以上に、知りたい。追いつきたい。隣に立ちたい。


(兄さん。……あんたが見てる世界、あたしにも見せなさいよ)


 そう思ったとき、足元の土が、かすかに揺れた気がした。


 ──何かが、近い。


 プニがぴたりと動きを止める。跳ねるのをやめ、ぐにゃりと身を低くする。


「……えっ」


 美咲も、思わず止まる。音はない。でも、“来てる”のはわかる。

 闇の奥。光の届かないその先に、何かがいる。


 心臓が、うるさいくらいに脈を打つ。


(この気配……魔物?)


 息を吸って、吐く。震える指を握りしめる。

 目の奥がじんと痛む。視界が少し、霞んだ。


 でも、逃げない。


 美咲は、前を見たまま、そっと一歩踏み出した。


「……大丈夫。私なら、できる」


 プニがまた、ぽよんと跳ねる。

 先へ進もうとするその背中を、あたしは静かに追いかけた。 


 ──これが、兄の見ていた世界。

 あたしが知らなかった、陽斗の“今”だった。


 物語が、少しずつ動き出している気がした。知らなかったはずの景色が、目の前に広がっている。


 ──そのすべてを、この足で、確かめに行くために。




 曲がり角を抜けた先のその空間に、何かがいた。

 ぬるりとした気配に、汗ばむ手が反射的に動き、持ってきた包丁を抜いた。


(……いた)


 視界の奥。通路の真ん中で、ひときわ異様な気配を放つ影──

 緑色の肌、短い胴と手足、けれど全身に緊張を張り巡らせたような肉付き。


 ──ゴブリン。


 こちらに気づいたその瞬間、相手の動きが止まった。丸く濁った目が、ぴたりと美咲の体を捉える。

 そして──次の瞬間、わかりやすく目が見開かれた。


 喉がひくつく。胸が上下する。その顔には理性なんて微塵もなくて、ただ「発情した獣」としか言いようがなかった。


(来る……!)


 包丁を両手で構える。刃先がかすかに震える。だけど美咲の足は動かなかった。


「っ──来んなッ!!」


 声が漏れた。視線がぶれないように、両目を見開く。

 あいつは近づいてくる。ゆっくりと、確実に。


 気配が濃くなる。その手が動いた瞬間、戦闘が始まる──そう確信できた。


 ──ぽよんっ!!


 急に、空気を裂くような跳ね音が響いた。


「プニ……!」


 目の前に飛び込んできたプニ。種馬と美咲のあいだに、ぴたりと滑り込むようにしてプニが現れる。


 包丁を構えたまま、美咲は固まった。プニが跳ねる。もう一度。今度は種馬のほうを向いて。


 その動きに、種馬の足が止まった。無言のまま、数秒──

 そして、ぐるりと美咲の方へ視線だけを動かす。

 けれどさっきとは違う。もう、動かない。さっきまで発情していた気配が、ぴたりと消えていた。


「……止まった……?」


 プニがくるりと振り返り、美咲の方を向いて──


ぽよん。

 

 まるで「もう大丈夫」とでも言うように、跳ねた。


 種馬は一歩、また一歩と後ろに下がる。それから、自ら背を向け、通路の奥へとゆっくり歩き始めた。


「……どういうこと?」


 包丁をゆっくりと下ろし、美咲はプニを見た。


「いまの……あんたが止めたの?」


 プニは跳ねない。けれど、その場にじっととどまり、まるで頷くように身体を揺らす。


 美咲は包丁を戻し、ゆっくりと呼吸を整えた。

 喉が渇いて、心臓はまだ速く打ってる。鼓動の余韻が、まだ身体の奥に残っている。けど──歩ける。


 プニがぽよんと跳ね、先を示す。


「……さっきの、あれ……」


 呟いたところで、プニが答えるわけじゃない。

 けれど、その沈黙が不思議と心を落ち着かせた。誰にも理解されない前提で、そっと呼吸を整える。


 通路は、まだ奥に続いている。引き返す理由なんて、最初からなかった。


「行こっか、プニ」


 ぽよん。


 短く返事をするように跳ねて、プニが先を進む。

 その背中──いや、背中なんてないけど──その輪郭を見つめながら、美咲も一歩を踏み出した。


 奥へ進むにつれ、通路の形状は少しずつ変わっていった。

 天井が高くなり、左右の壁も滑らかな岩肌から、どこか整備された通路のような直線的な構造へと変化する。


(人工的……? でも、こんな地下に?)


 ほんのりと壁が光っている。照明ではない。どこか“生きてる”みたいな、薄く発光する粘膜のような……気味の悪さと、興味が半々だった。

 



 通路を進む足がふと止まる。何かが、動いた──

 そんな空気の揺らぎが、肌に触れた気がした。

 前方。通路の先。そこにいたのは、ぷるんとした半透明の塊。


 見覚えのある形──スライム。

 けど、プニとは違う。こいつは、敵。


「……魔物、なんだ」


 喉が渇く。けれど、逃げる気はなかった。


 プニは止まっている。美咲を置いて、前に進もうとはしない。


 まるで、あたしの選択を待ってるみたいに。


 (陽斗が、ここで……毎日、こんな魔物と)


 包丁の柄を握る手に、力が入った。


 兄さんの背中を、ずっと見ていた。でも、その背中がいつの間にか──遠くに行っていた。


 あたしを置いて。


 (兄さんがどこまで行こうが、あたしもすぐに追いかけるわよ)


 足を一歩、踏み出す。スライムが反応するように、ぬるんと身体を揺らした。


「こっちに……来なさいよ」


 声が震える。けれどその震えを、怒りで塗りつぶすように、美咲は包丁を構えた。


 ──魔物が、跳ねた。


「っ!」


 刃を振る。反射的だった。

 ぬめりの中に、刃が入った手応え。それでも動きは止まらない。

 もう一度。今度は狙う──中央に浮かぶ“核”。


 (……確か、中心にあるのが“弱点”だったはず)


「……そこっ!!」


 全身の力を込めて、突き立てる。

 ぷちん、という嫌な感触のあと──スライムが震えた。


 ぐしゃり、と音を立てて崩れていく。

 そして、床にぽとりと落ちたものがある。


 ──魔石。


「……やった……の?」


 自分でも驚くほど、息が荒かった。

 背中が汗でぐっしょり濡れてる。手が、震えて止まらない。


 それでも。


「……これで、あたしも……」


 力が抜けて膝をつきそうになるその瞬間──

頭の奥に、何かが焼き付くような感覚が走った。

 文字ではない。声でもない。

 “意味”だけが、脳に直接届いてくる。

 

《スキルを獲得しました》

《賢者 Lv.1》


 プニが、ぽよんと跳ねた。静かに、でもどこか満足そうに。


「“賢者”……?」


聞いたことのない言葉。なのに、胸の奥が妙にざわつく。

 知らないはずなのに、“魔法”──そんなイメージが、なぜか浮かんだ。


プニが、ぽよん、と跳ねた。

 美咲の足元をくるりと回り、そして、少しだけ離れた位置に跳ねて移動する。


 まるで、「やってみなよ」と言っているみたいに。


 「……やるけど。見てなさいよ」


 右手をゆっくりと前に出す。

 包丁は、いったん下ろして──掌を、空間へ向けて。


 「火、でいいのかな……」


 美咲は小さく息を吸い、意識を込めて掌を前に突き出す。


 ──瞬間。


 「──《ファイア・バレット》」


 言葉は自然に出た。まるで最初から知っていたかのように。

 次の瞬間、手のひらにふわりと小さな火の玉が浮かび上がる。


「……っ!」


 熱はあった。でも、怖いほどじゃない。

 驚きと、それ以上の高揚感。

 たしかにいま、美咲の中から“魔法”が出ていた。


 火の玉は数秒ほど空中に漂ったあと、しゅんと音を立てて消える。


 「やった……本当に、使えた……!」


 思わず小さく笑みがこぼれる。

 魔物を倒したときとは、違う意味での“実感”が、胸を満たしていた。


 ぽよん。

 プニが再び跳ねる。いつも通りの仕草、だけど、どこか満足そうに見えた。


 「……やっと、ここまで来たって感じ」


 ──《賢者》。

 聞いたこともないスキルなのに、頭の中には“いろんな魔法”の感覚が流れ込んでくる。

 火だけじゃない。水も風も──使ったことがないのに、「できる」って確信がある。


 (……これが、賢者のスキル)


 すごい力。たぶん、簡単に手に入るもんじゃない。でも今は──それを、自分が持ってる。


 これなら兄の隣に立つその日は、きっと遠くない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る