『花屋flora』
志乃原七海
第1話『店の明かり』
***
**都会の灯とレモンの香り**
大通りの喧騒が遠い波音のように響く路地裏。アスファルトに滲む街灯の影に混じり、頼りなげなランプの灯が揺れている。蔦が壁面を這い、風雨に晒された木製看板には「Flora」の文字。ショーウィンドウ越しに溢れる極彩色の花々だけが、ここが灰色の街であることを忘れさせた。
高橋航大は、そのショーウィンドウの前で足を止めるのが日課になっていた。くすんだ真鍮のドアノブへ指先を伸ばしかける。金属の冷たさを想像したのか、あるいはガラスに映る自身の疲れ切った顔を見たからか、伸ばした手は行き場を失い、コートのポケットへと逃げ帰った。
時刻は二十二時を回っている。周囲の店舗が鉄のカーテンを下ろす中、そこだけが柔らかな琥珀色を吐き出していた。
店の前には古びたブリキのバケツ。無造作に放り込まれた季節の花を、一人の女性が片付けている。街灯が彼女のうなじを白く照らし、花びらを拭う指先は、壊れ物を扱うように慎重で滑らかだった。
ふと、彼女の手が止まる。視線が交差した。
彼女は小さく頭を下げると、花を抱えて扉の向こうへと消えていく。残されたのは、夜風に揺れるランプの灯りだけ。航大は大きく息を吐き出し、強張った肩を落として、夜の闇へと背を向けた。
数日後、航大は再びアンティークのドアの前に立っていた。ガラス越しの光が、足元を柔らかく照らしている。
指先に触れたノブは、想像よりも冷たく、重かった。
カウベルが乾いた音を立てる。
同時に、鼻孔をくすぐる湿り気を含んだ空気。百合の濃厚な甘さ、切り戻されたばかりの茎の青臭さ、湿った土の匂い。それらが渾然一体となり、肺の奥まで満たしていく。外の世界の乾燥した冷気とは異なる、濃密な静寂。
「こんばんは」
奥から現れた彼女が、花がほころぶように目を細める。
「外、寒かったでしょう。どうぞ、中へ」
ためらう航大の背中を、彼女の声が温かく押した。重厚な扉が閉まると、遠くのサイレンも車の走行音も遮断される。飴色に艶めく古家具と、壁一面に吊るされたドライフラワー。時間が止まったような空間で、彼女はカウンターの奥へと消え、やがて湯気の立つ二つのカップを運んできた。
「いつもお店を気にかけてくださるから。ささやかなお礼です」
ソーサーがコトリとテーブルに置かれる。立ち上る湯気と共に、ベルガモットの華やかな香りが漂った。
カップに口をつける。温かい液体が喉を通り過ぎたあと、アールグレイ特有の渋みの奥に、ふわりと爽やかな酸味が鼻へ抜けた。
「……おいしい。レモンのような香りもしますね」
航大の言葉に、彼女は悪戯を見つけた子供のように片目を瞑ってみせた。
「分かりますか? うちの庭で採れたレモンの皮を、ほんの少しだけ。果汁を入れると酸っぱくなってしまうから、香りだけを移すんです」
彼女はカップを両手で包み込み、湯気の向こうから航大を見つめる。
「初めてのお客さまが不思議そうな顔をされるのを眺めるのが、私の密かな楽しみで」
彼女の楽しげな声音に、航大の強張っていた頬が自然と緩んでいく。
ふと、彼女が身を乗り出すようにして、小首を傾げた。
「でも航大さんは、今日が『初めて』というわけではないですよね?」
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