『花屋flora』
志乃原七海
第1話『店の明かり』
都会の灯とレモンの香り
街の灯りが滲む夜、喧騒から隔てられた静寂、それは小さな花屋「Flora」だった。街角の喧騒を忘れさせるように、蔦の絡まる壁、使い込まれた木製の看板、そしてランプの暖かい光が、まるで秘密の隠れ家のように人々を惹きつける。疲れた心が、ショーウィンドウの彩りを求めるのは、高橋航大にとっていつものことだった。
アンティークのドアノブに手を伸ばしかけては、ため息とともに戻す。それは、まだ見ぬ秘密の庭を前に、立ち尽くしているような不思議な感覚だった。
夜十時、ほとんどの店がシャッターを下ろす中、Floraだけが生きているように光を放っていた。入口のドアの横に置かれた古びたバケツには、季節の花が無造作に活けられ、その香りがかすかに漂ってくる。店先では、女性が看板の花を慈しむように片付けている。街灯が彼女の柔らかな髪を照らし、その指先の繊細な動きは、時間が止まった一枚の絵画のようだった。
彼女がこちらに気づき、小さく会釈すると、静かに店の中へ消えた。その一瞬の交錯が、航大の胸を締めつけた。
明日こそは。そう心に誓い、夜の空気に背を向けた。
数日後、航大はまたFloraの前にいた。ガラスの向こうの光が、優しい光を放ち、招き入れているようだ。
「こんばんは」
ドアベルが鳴り、彼女が現れた。少し頬を染め、花がほころぶような微笑みを向ける。
「外は冷えるでしょう? よろしければ、中へどうぞ」
まるで彼の迷いを知っていたかのような、優しい誘い。言葉を失い見つめていると、彼女の笑顔が、凍てついた夜の空気をふわりと溶かしていく。
ゆっくりと店の中へ一歩。重いドアが閉められると、街の音は遠ざかり、外界とは異なる時間が流れ始める。甘い花の香り、瑞々しい緑の匂い、そしてどこか懐かしい土の香りが混ざり合い、心を落ち着かせる優しい沈黙がそこにはあった。店内には、アンティークの家具がさりげなく配置され、壁には押し花やドライフラワーが飾られている。それぞれの花が持つ物語を語りかけてくるようだ。
「…ありがとうございます」
ぎこちない声に、彼女は穏やかに頷き、店の奥へと歩いていく。
「温かいお紅茶でも、いかがですか? いつもお店を見ていてくださるから、ささやかなお礼です」
少しはにかみながら、けれどその言葉には、Floraに対する深い愛情と誇りが込められている。
「…ぜひ、いただきます」
彼女は湯気の立つティーカップを二つ、丁寧に運んできた。
「どうぞ」
受け取ったカップからは、アールグレイの華やかな香りが立ち上る。一口含むと、ほのかな甘さの中に、何か懐かしい爽やかさが隠れている。
「おいしいです。レモンのような香りも…」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「分かりますか? 秘密なんですけど、うちの庭で採れたレモンの皮をほんの少し。でも、果汁を入れると酸っぱくなってしまうから、レモンティーなのにレモンは入れないのが、私のささやかなこだわりなんです」
秘密を共有するように、彼女は片方の目をきゅっと瞑ってみせる。
「初めてのお客さまは、みなさん不思議そうな顔をされるんです。そのお顔を見るのが、私の密かな楽しみで」
その笑顔に、航大の心の輪郭がふわりと溶けていくような心地がした。
彼女は航大の顔を覗き込むと、楽しそうに続けた。
「でも、航大さんは、初めて、というわけではないですよね?」
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