第二部 国境なき正義 第十六話
エジンブラのニュータウン近く。閑静な森の中に一際古い建物がある。古城と言っても差し支えないほどの広さを持ちながらも、敷地の隅々に至るまで清潔で一糸の乱れもなく整えられている。
俺は何重にも張り巡らされたセキュリティ網をくぐり抜け、母屋の玄関に降り立った。ドアノックを叩くと監視カメラの微動音が聞こえてくる。
「SBだ、ミスター。取引をしようかと思ってね。」
俺がドアに向かってそう言うと、10秒でドアの施錠が開く音がした。
『入って。この邸の間取りは覚えてる?』
「・・マダム。もう動いても大丈夫なのか?ミスターはどうした?」
『何処かで震えてるんじゃない?とにかく入ってらっしゃい。二階の奥の部屋にいるわ。』
「二階の奥の部屋ね・・女性の寝室に入るのは少し抵抗があるが、わかった。すぐに行く。」
俺はドアから邸に入り、そのまま正面の螺旋階段を上り二階に上がった。マダムの寝室までの長い廊下を歩きながら、ふと考える。
イングリッド・フィッツワース。インガランド王家に繋がる名家の生まれで、幼い頃からその聡明さと明敏さは群を抜いていた。加えて名家特有の英才教育と帝王学を学び、十代の終わりにはゲインチャイルド家の中枢を担うようになった。そして彼女は前の世界、俺が一度経験した世界で、日本国の財政省を使って江橋を暗殺させた張本人かもしれない。
まあ、その辺は俺がいなくなった世界の趨勢に従っただけかもしれないが。
部屋に入ると、ガウンを着たマダムがソファに座っていた。
「先に言っておくわね。ハロルドには、あなたの事は口外無用と言ってあるわ。だから安心して。」
「ありがとう。」
俺はそれだけ言うと、マダムの対面に座った。
そうか。江橋の暗殺にこの人は関係していない。関係しようとしても出来ないのだ。おそらくこの身体だと持ってあと半年。
まったく、人間ってのは・・・。
「何も言わないのね、もう分かっちゃったってことなのかしら。」
「すまない・・。盗み見しようとした訳じゃないんだが。」
「いいのよ。どうせ貴方に隠し事が出来ないのは分かっているから。それで・・取引って何?」
マダムは知らない。俺は確信した。では誰が?
俺は、俺の身に起こったことを全て話した。時折、マダムは辛そうにしていたが、それでも微塵も姿勢を崩すことなく俺の話を聞いていた。
「そうだったのね・・・。貴方が消えた、というのはもちろん聞いていたわ。そうね、今から思えば確かにハロルドは妙に確信ありげだったような気がするわ。私は半信半疑って感じだったけれど。でも、まさかそんな事にハロルドが関与していたなんて・・・シャーリーは?」
「知っていた。だが、彼女は後悔していた。おそらく、そんな計画が上手くいくはずがない、と高をくくっていたのかもしれないな。」
「そう。じゃあ、彼女には手を出さないでくれるのね?」
「おいおい、聞き捨てならないな、それは。まるで俺が殺人狂みたいじゃないか。俺はこれでも彼女のことはリスペクトしているんだ。」
マダムが顔をしかめながら笑った。
「知ってるわよ。もう、やめてよね、こっちは病人なんだから、笑わせないで。」
「あ、すまない。だが、ミスターが関与してるというのは本当なのかい?」
「オズのグループが彼の了承無しに動くことはないわ。立案と計画・実行は全てオズのグループがやったことでしょうけれど。」
いずれオズワルドとそのバックにいる奴には会うつもりだが、最終的な決定権がミスターと、このマダムにあるのであれば、先に交渉事を決めておいた方がいい。
「華国、あんた等で何とかなるか?」
「何とかって・・・どういうこと?」
「いや、今の共生党を潰してしまおうかと思っていてね。」
マダムは呆れたように、
「とんでもないことをさらっと言うのね、貴方は。じゃあ、共生党のメンバー無きあと、華国の経済が落ち込まないように上手く調整していくってこと?それも我々のメンバーで。」
「簡単に言うと、そういうことだ。」
「・・簡単って・・わかったわ。それが我々を生かしておくための条件ってことね。」
俺はゆっくりと頷きながら
「あれだけの経済圏だ。下手な奴等に任せるわけにはいかない。その代わり、マダム達の組織の殆どには手を付けない。まあ、一部を除いてな。」
マダムはしばらく考えるように目を閉じていたが、
「わかった。でも、貴方も知っているとおり私は無理よ。こんな身体ですもの。ハロルドと、あとはオズとは他のグループに任せようかしらね。」
「いや、イングリッド。君がやるんだ。シャーリーにも手伝わせろ。」
マダムは呆れたようにしていたが、そのうち能面のように無表情になりながら
「そう、最後まで責任を持てってことね。分かったわ。でも、途中で死んじゃったらごめんなさい。」
「いや、君は死なない。」
「・・どういうこと?死なないって・・」
ゆっくりと立ち上がったマダムが、ようやく自分の身体の変化に気付いた。
「・・え?・・貴方、なにかしたの?」
「マダムが元気になるように、ちょっとしたおまじないを・・」
マダムは俺が言い終わらないうちに立ち上がったままソファを周り、俺の頬を打った。
「勝手なことをしないで!必死の思いで覚悟していたのよ、これでも。それに、そんな事ができるなんて聞いてないわ・・・。」
マダムはそれ以上の言葉を失ったかのように俺をじっと見ていたが、そのうち自分が打った俺の頬を柔らかく撫で始めた。
「まったく・・貴方って人は・・・。忘れないうちに聞いておくわ。私の命はどのくらい延びたの?」
「さあ、それは君次第なんじゃないかな?人間ってのはやるべき事が明確な場合、更に元気になると聞いているしな。まあ、どのくらいかかるか分からないが、成功した暁には君が好きな1940年のロマネ・コンティを用意してある。一緒に乾杯しよう。」
マダムは、泣き笑いのような表情になり
「最高の口説き文句だわ、それ。わかった。任せて、SB。」
「オズのグループへの処置はあとになるが、必ず償わせる。それは譲れない。そして華国だが、準備にどのくらい待てばいい?出来れば数ヶ月で済ませて欲しいんだが・・」
マダムはいつもの冷たい笑みを浮かべると
「数ヶ月・・。見くびらないで。そうね、2週間程度待ってもらえば十分かも。ただし、公共サービスは別よ。なにせ13億人もの国民の生活を支えているのだから。あそこも多くは共生党のメンバーが担当しているし、あとは社会組織ね。そこはどうするつもり?」
「そうか・・。共生党のメンバーには全員消えてもらおうかと考えていたが、そうもいかないか・・。」
「そりゃそうよ。まあ、社会組織の方は民間だから何とでも出来ると思うけど、共生党が管理している全ての統治は無理だわ。」
「国民の生活に支障が出ないために残しておくべき組織やメンバーは分かるか?」
「分かるはず、ないじゃない。でも、まあ何とかならないでもないかな・・。経済的なことは別として、そちらはどのくらい時間もらえる?」
「必要なだけ。だが・・」
「出来るだけ早くってことね。そうね・・一月ちょうだい。何とかするわ。それが分かり次第、貴方に連絡する。あ、それと、華国の通信公社に丁という男がいる。それに私達のグループに属している笙(しょう)という男も。特に笙は、現共生党員だし華国の全てに関して知悉しているの。連絡先を教えておくから、この二人を自由に使っていいわ。あとで二人には私の方から伝えておくから。」
「何から何まで済まない。」
「いいのよ。華国の主だった企業とは以前から繋がっているし、息のかかったメンバーも何人か潜り込ませているの。共生党の影響がなくなるのであれば、彼らも自由に動けるようになるわ。」
さすがはゲインチャイルドの総帥の一人である。まあ、このマダムという人間は、その中でも特別なのかもしれないが。
「やっぱり君のところに来て正解だったよ、イングリッド。それじゃあ任せたよ。こちらは全体に支障がない程度に始めるつもりでいる。逐次、連絡するようにするよ。あ、それとミスターにも宜しく伝えておいてくれ。ミスターには何もする気はないが、それは伝えるな。少しくらいのお灸は必要だからな。」
マダムは今度こそ心の底からおかしそうに笑った。
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