第4話


「へぇ。あれがくだんの。なるほど確かに見目がいいね」


 いつもの水庭で郭嘉かくかが見上げている。


「あんたホントに女には目ざといな。俺は全くあんな美女に見られてるのも知らずにいた」


「見に来ないでよ」


「見に来ないでよとはなんだ。ここはどっちかというとあんたより俺の縄張りだろ。

 それにああいう女は大勢の男で眺めながらああだこうだときゃっきゃ言いながら見るから楽しいんだろうが」


「いつもああして佇んでる。降りてきてくれないかなあ。ぜひゆっくり話したいね」


「俺が今、軍の天才軍師郭嘉かくかさんが君を熱い眼差しで見上げてるよ! ってでっかい声で言ったら、数日前から届いてるあんたからの出陣要請の手紙燃やして捨てていいかな?」


「いいよ。また書いてあげるから」

「タチの悪い子だねえ、あんたも」


 郭嘉は優雅に足を組み替える。


「誰と比べたのかな」


「いや今回のうちの総大将に決まってんだろう。

 言っとくけど、司馬懿しばい殿があんたを連れて行くのは嫌だって言ったら、あんたがどうあがこうが今回は絶対連れて行けないからな」


「大丈夫だよ。私は感じのいい好青年だから。きっと印象がいい」

「うん、感じのいい好青年が同僚脅して無理に出陣させるのやめようぜ」


「で、何がタチが悪いって?」


「何がって顔触れだよ。俺はこんなに優秀で素晴らしい戦略家で涼州りょうしゅう出身なので、今回の作戦の総指揮を任されるのは分からんでもないけど」

「どっちかというと『涼州出身の戦略家』だから選ばれたんだと思うけどね」

「うん、もう一回そんなこと言って俺のこの繊細な心傷つけたら平手打ちだぞ坊や」

「確かに貴方と司馬懿殿っていうとあんまり冴えた組み合わせじゃないかなと思うけど」


「誰が冴えてない組み合わせだ」


 いちいち言い返してくる賈詡かくに、おかしそうに郭嘉かくかが笑っている。


「でも思ってるよりも貴方はどんな人間とも上手くやれるとこはあるから、合わないってことはないと思うけど」


「俺と司馬懿殿は別にいいんだよ。

 自分のお仕事しっかりやること以外あんま興味ないから協調はやろうと思えば出来る。

 まあ趣味とか笑いのツボは全く違うと思うけどね。

 しかし図鑑で言ったらあの人と俺は違う種類だけど、比較的近いとこに書かれてる生物だ」


「遠い生物っていうのは私のことかな?」

「あんたはまだ今回の従軍に参加するかは正式に決まってない」


「まあ今はそういうことにしといていいよ。他に誰かいるんだ。

 そもそもこの遠征の概要をまだ知らされてないからなあ。

 対蜀の圧力を強めてもう一度呉蜀ごしょく荊州けいしゅうあたりでぶつけたいんだろうけど」


「全部言うんじゃねーよ。そこは俺がいい感じでジワジワ話していく部分だ」


「しかし作戦自体が春から冬に早まった。ということは今動いた方がいいという何か情報を司馬懿殿や曹丕そうひ殿は手にしたのかも。

 ……なんだか君とここで話してるより彼らと直接話したくなって来たなあ」


「うん話の途中で俺から興味急速に失うのやめような天才軍師さんよ」

「だって賈詡かくちょっと回りくどいところあるんだもの」


「あんたが直球過ぎんだよ。

 いいか。軍師ってのは作戦を将兵に伝えなきゃなんねーんだぞ。

 そんな剛速球の顔面ぎりぎりに投げ込むみたいな話し方してたら将兵が驚いて怯えるだろ。もっと優しく包み込んで話せ」


「私は優しい話し方だねってよく女性に言われる」


「喋り方のこと言ってねーよ! 内容が怖いんだよ!

 優しい話し方する奴は今『荊州けいしゅう』とかいう単語出さねーんだよ!」


「ごめんごめん。びっくりした?」


 笑っている郭嘉に賈詡は苦い顔をした。


「してねーよ! したけどしてねえよ! 

 っていうかなんの話してた⁉ あんたと話してるといっつもこうやって道を逸れていくんだよ!」


 郭嘉かくかは優雅に水庭の縁に頬杖をついて微笑んだ。


「従軍する顔ぶれのはなし。」


 進路を戻してやる。


「ああ、そうだった。ただでさえ新兵が多い二軍編成なのにそこにもう一人軍師加えたら喧嘩になるだろって。

 目を輝かせるな。あんたはまだ連れて行くか決まってねえって何度言えばわかる」


「おや。私を差し置いて。召喚された軍師って一体誰かな?」

「言っておくけど差し置いたの俺じゃねえからな。徐庶じょしょだよ」


 郭嘉は鶸色ひわいろの瞳を瞬かせた。


「……誰だっけ?」


 賈詡かくが半眼になる。


「そういう部分だけ俺に説明させるってあんたホント嫌な奴だな」

 郭嘉は吹き出した。

「いや、ごめんごめん。これは本当にきみをからかって遊んでるんじゃなくてパッと頭に出て来なかった」


 腕を組んでから賈詡はため息をつく。


「まあ俺も聞いた時『はて?』みたいな反応しちゃったから別に構わんがね。

 徐元直じょげんちょく。元々しょく劉備りゅうびに仕えていた軍師だよ。

 ほら……新野しんや曹仁そうじん殿の【八門金鎖はちもんきんさ】の陣を壊滅させた」


 新野と曹仁という名ではまだ目を瞬かせていた郭嘉かくかだが【八門金鎖】の名を聞いた瞬間、片眉を吊りあげた。


「あれはまだ不完全だったんだよ。曹操そうそう殿はあれを前線砦にして、もっと大きな砦をあそこに……」


「あー! そんな話全く聞きたくない。

 俺はあんないかにも崩したら楽しそうな気取った陣は嫌いだね! あんなもんを作ってるから得体の知れない軍師が壊してみたいってワクワクして寄ってくるんだよ。

 軍策ってのは出来るなら単純明解で圧倒するのが一番いいんだ分かったか」


「絶対崩せない、完璧な陣がこの世にあるなら、それは軍師として一度は作り上げてみたい欲はあるさ。

 曹操殿は戦術家でもあるから、劉備のような単純な相手に【八門金鎖】みたいな陣を一度仕掛けてみたかったんだろう。気持ちは分かるよ」


「くあ~! 意地悪だねえ。

 踏み潰せば簡単に終わるのに、無駄になぶろうとしたから追い詰められた鼠に噛まれたんだよ」


 郭嘉かくかは微笑んだ。


「なるほど。ようやく思い出した。

 そのあと私自身が死にかけていて忙しかったからすっかり忘れてたよ。

 その鼠くんがなんだって?」


曹魏そうぎに降ったのはあんたも知ってるんだろ」


「なんかそういうことを言ってたね。ただそのあとぱったり話を聞かなくなったから死んだのかと」

「死んでねえよ。ぴんぴんして長安ちょうあんに住み着いてらあ」

「確か母親を曹操殿が洛陽らくように招いたと言ってたか……」


 郭嘉の記憶は徐々に蘇り出したらしい。


「そ。んで、曹魏には来たけど世話になった劉備に剣は向けられねえって、対蜀の戦線には行かないって拒否した」


「……ああ……それはいけない。曹操殿はそういう中途半端が一番嫌いだ。

 関羽かんう張遼ちょうりょうをあの人が評価するのは、自分の許に降った以上はきちんと尽くしたからだ。

 だから関羽は去ったことさえ不問にされた」


「仰るとおり、珍しく荀彧じゅんいくがキレてたな。曹操殿がそんな大層な温情を与えるような相手じゃないってさ」


「そうか。文若ぶんじゃく殿をそんなに怒らせたか」


 激怒してたよ。

 賈詡は腕を組んだまま笑っている。


「……彼を今回、司馬懿殿が陣容に加えた?」


 ふと、頬杖をついてどこかを見ていた郭嘉の空気が変わったと賈詡かくは気づいた。

 非常に些細な変化だったが、彼には分かった。

 郭嘉は何かを考え始めたようだ。

 端正な横顔を見せたまま、意識がどこかへ逸れた。


(なにを考えているやら、だ)


「……そのことを曹操殿はご存知なのかな?」


「曹操殿? さあ知らんが。

 だがもはやそんなことはどうだっていいだろう。

 徐庶じょしょの問題点は魏のために働けるかどうかだ。

 いまいちどんな奴か、分からんから使いにくい。

 仲達ちゅうたつ殿からはなんかよく分からん副官のことも頼まれてる。

 おまけに涼州りょうしゅうに行ったことがあるどころか山登りをしたこともあるかどうか分からん新兵の混ざった二軍編成だぞ。

 よく考えたらよく分からん奴今回多過ぎだろ。

 これはあれか? 涼州云々とか本当はどうでもよくて、司馬懿しばい殿これを機になんか俺に失敗させようとして処断しようとしてる罠かなんかか?」


「君を今処断してなんの意味が?」


 深読みをしすぎて馬鹿なことを言っている賈詡に、郭嘉は笑ってしまった。

「ないけどなんかそんなわけわからんことあの人はしそうな時がある」


「……劉備の新野しんや時代と言えば、まだ流浪の身分の時だ。

 そんな時にあの男につくとは。

 先の見えない軍師だね。

 でも……」


 ふと見上げると、女の姿はいつの間にか消えていた。


「行ってしまった。あの人も気になる。

 一体いつから司馬懿殿の側にいるんだろう?

 今まで姿を見たことなかったんだが」


 賈詡は顎をしゃくった。


「しかしあの風体では間諜や子飼いの暗殺者の類いではないと思うがね」

「では恋人かな? 司馬懿殿ほどの人なら結婚相手は曹丕そうひ殿下が吟味すると思うんだが。

 私も許都きょとや長安の城や街にいる女性にはこれでも詳しい方なんだけど、彼女は今まで見たことがない。

 しかし存在感がある人だ。

 今までそういうところで暮らしていたならそれなりに噂になっているはずだけれど」


「あんたが今答えを言っただろ。

 なら、今までここらにいなかった人なんだよ」


「……徐庶じょしょを呼び出したのは司馬懿殿なんだね」


 確かめるように、もう一度郭嘉が問う。


「ああ。そう聞いた。使い物になるかどうか、一度見てみたいってさ」

「そう……」

 郭嘉はゆっくりと水庭の縁から立ち上がった。


「なんか色々考えてたら俺の手だけじゃ全然ちっとも足りないような気がしてきたぞ。

 これはもはやお言葉に甘えて魏軍最強の天才軍師郭嘉大先生に要請通りお出まし願ってもいいかな?」


「……うーん……。」


「『うーん』って……なによその気のない返事。あんたこの前っつうかさっきまでついていきたいついていきたいって散々俺に絡んで来てたよな⁉ この期に及んでやっぱり気が変わったとか言うなよ?」



「やっぱりなんか、気が変わって来たなあ。」



「言ったな⁉ 今、言うんじゃねーよって釘を刺したやつ一秒で言ったな⁉

 なによ! 徐庶が嫌なわけ? んじゃ徐庶は司馬の大将にお願いしてお留守番させるからあんたはついてきてよ!」


「別に徐庶が嫌なわけじゃない。そもそも彼のことは全く知らない。

 知らないんだから嫌う理由もない。

 どっちかというと司馬懿殿が選んだり紡ぎ出す色がね……」


「色がなんだって?」


「なんでさっきまで美しく見えたものが彼が持つだけで不穏な色に思えるんだろう」

「いや安心しろ。あんただけじゃない。俺も司馬の大将には不穏は感じてる。

 とにかく不穏感じてる仲間としてあんたも来てくれ。

 部下にあんたの方が頼りにされてもいちいちいじけたり鬱陶しいこと絶対せんし」


「ちょっと考えさせてもらっていいかな?」


「なにを考えるのよ! それもう……やんわり断る時のお決まりの台詞だよね⁉

 今の五分くらいの間に一体あんたの中にどんな変化起きたんだよ!」


「いや。そんな大層な話じゃない。

 ただ新野の話を聞いて色々思い出してしまってね。

 冬の涼州か……私が前に従軍した時は秋だった。

 それでも雨が降ると凍えるような日になることもあったよ」


 ふと、賈詡は首を傾げた。


「ああ……そういや、先生前にも涼州遠征してたね」


「うん、まあね。深い所までは行っていないけど」


 丁度西日が強くなってきて、郭嘉は目を刺した陽射しを遮るように手を額のあたりに翳した。



(あの地にはあまりいい記憶がない)



しかし色んなことが頭の中には浮かび駆け出してしまった。


(こんな時に曹操殿がいてくれたらなあ。

 あの人は私をいつも『さあ次はどんなすごい策を披露してくれるんだ?』って目で見てくれたから、こっちとしても何か披露してあげなきゃと思ったしついつい楽しませようと張り切ってしまったんだけど。

 司馬懿殿は殿より気難しいところがあるからなあ)


 さて、どうしたものかなと彼は考え込んだ。



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