蒼春トランジション

菱川あいず

一眼レフの少女

 学生服の少女と目が合ったので――僕は迷わずカーテンを閉じた。


 窓の外は、爽やかな風の吹く初夏の夕暮れ。

 僕の部屋では、扇風機が〈弱〉の強さでゆっくりと回っている。


 バクバクという心臓の音が聞こえそうなくらいに、僕は焦っていた。

 もしかすると、彼女に部屋の中を見られたのではないか。

 いや、それはないはずだ、と僕は真っ暗な部屋の中で首を横に振る。

 カーテンを開けた瞬間、彼女と目が合ったことは事実だ。

 しかし、カーテンを開けたのはほんの二秒ほどだし、開けたのもほんの五センチほど。

 それに、僕の部屋の窓は五階にあって、彼女ははるか下のアスファルトの上にいるのである。

 角度的に、彼女が部屋の中身を覗き見ることは不可能だ。絶対に不可能だ。

 頭ではそうは分かっていても、僕は気が気でなかった。

 それは、夕陽を反射して黒光りしていた一眼レフのせいである。

 学生服の少女の首には、小柄な少女の身体には明らかに不釣り合いなほどに大きなカメラがぶら下がっていたのだ。

 彼女が僕の部屋目掛けてレンズを向けた瞬間を目撃したわけではないが、あのカメラは、あまりにも明確なメッセージを発している。『お前を見張ってる』と。

 一眼レフの少女が誰なのか、僕は知らない。

 ただ、彼女が着ている学生服には、見覚えがある。

 僕が通う高校のものだ。

 いや、『通っていた』といった方が正確か。僕は、もう半年以上も高校に行っていない。いわゆる〈不登校〉なのだから。

 不登校になっている男の自宅までわざわざ駆けつけて、その生活風景を監視しようなど、あまりにも悪趣味である。イケメンだったらまだしも、僕は〈彼女いない歴=年齢〉の、うだつの上がらない男なのだし。


 僕は、カーテンの端をギュッと掴んだまま、息を吸ったり吐いたりする。心臓の鼓動が落ち着く気配はない。当然だ。本当に怖いのは次の展開なのだから。


 ピンポーン――。


 僕が恐れていたとおり、家のインターホンが鳴らされる。

 先ほど目が合ってしまったことで、一眼レフの少女に居留守がバレたのだ。一度ならず、二度三度と、ピンポーン、ピンポーンと高い音が響く。


香具師やし君、いらっしゃるんですよね?」


 言葉は丁寧語なのだが、やたらとボリュームが大きい。その声は、窓とカーテンを閉めた室内にもゆうに届いていた。


「香具師君、煮て食べませんから出て来てください」


 ここは閑静な住宅街である。近隣の人たちもこの大音量の声を聞いているだろうと思うと恥じらいを感じる。


「焼いて食べもしませんよ」


 無論、調理法の問題ではない。

 一眼レフの少女は巫山戯ふざけているのだろうか。面白半分に僕を揶揄からかっているのだろうか――そんなことを考えていた矢先、少女は、僕をドキッとさせる。


「香具師君、一体何を恐れているんですか?」


 そんなの答えられるはずがない。答えられないからこそ、モロバレだろうとも居留守を使っているのである。

 早く帰ってくれ。一刻も早く――。

 僕は強く願った。

 早く早く――。

 それなのに――。



 一時間経ってもなお、一眼レフの少女は僕の家の前にいた。

 彼女と一度目が合って以来、カーテンは開けていない。そのため、彼女の姿を目撃したわけではない。それでも、彼女が僕の家の周りをぐるぐると廻り続けていることは、『香具師君、不貞寝ですか?』というバカでかい声が、定期的に、四方八方から聞こえてきたことから明らかだった。


 薄い毛布を頭まで被ってベッドでうずくまっていた僕は、ひどく焦っていた。


 今は十七時少し前。パートに出ていた母親が、そろそろ帰ってくる時間なのだ。

 当然、母と一眼レフの少女は鉢合わせすることになろう。そうすれば、きっと母は、彼女を家に迎え入れる。なぜなら、母には、彼女の異常性が分からないだろうから。まさか彼女が一時間以上も家の前で待ち伏せしているなんて、思いもしないだろう。見た目は普通の女子高生ながらも、その実は恐ろしい〈ストーカー〉なのだということに、母は気付けないはずだ。

 ともかく、母が一眼レフの少女を家に招き入れれば、ゲームオーバーである。彼女は僕の部屋まで乗り込んできて、僕の〈秘密〉を目の当たりにするだろう。仮にリビングで上手く食い止められたとしても、母がペラペラと僕の〈秘密〉を喋ることだってあり得る。

 ゆえに――。

 僕は腹を括るしかなかった。



 階段を駆け降りると、モニターがあるダイニングキッチンへと向かう。百何十目かのピンポーンという音が先ほど鳴ったばかりなので、彼女はまだドアの前にいるはずだ。

 モニターを除くと、案の定、少女の顔が映っていた。首に提げているカメラは、遠目で見た時以上にゴツい。


 僕は、モニターの下の〈通話〉ボタンを押し、何かを言おうとする。


「あ……」


 情けないことに、それしか声が出なかった。これが引きこもりのコミュ力というものである。

 それでも、僕の声を聞いて、一眼レフの少女の顔がパッと明るくなった。


「香具師君!」


 彼女はピョンと飛び跳ね、黒髪がふわりと膨らんだ。まるで織姫が一年ぶりに彦星に会った時のような喜びようである。


「香具師君に大事な話があるんです。ドアを開けてもらっても良いですか?」


 モニターで見る一眼レフの少女の容姿は、危うく『分かった』と言いかねないくらいのものだった。『美少女』と呼んで良いかについては、議論があるかもしれない。日本人にしては彫りの深い顔と、ラクダのように分厚い二重瞼には、好き嫌いがあるかと思う。それでも、僕は、彼女の容姿に惹かれた。モニター越しという距離感であるならば、ずっと見ていたいと思うほどには。


「香具師君、私の声は聞こえていますか?」


「聞こえてます」


 インターホンのマイクによって、少女の声はハッキリと聞こえている。『香具師君』と外で叫ぶ生声も普通に聞こえていたけれども、その時以上にハッキリと。


「では、ドアを開けてください。大事な話があるんです」


 分かりました、とドアを開けるわけにはいかない。可愛い女の子だろうが、福の神だろうが、決して家の中に入れるわけにはいかない。僕には守らなければならない〈秘密〉があるのだから

 他方で、一眼レフの少女が言っている〈大事な話〉が何なのかは気になる。単刀直入に訊いてみる。


「その〈大事な話〉っていうのは、家の中でないと話せないんですか?」


「ん?」


「モニター越しでは話せないんですか?」


「……なるほど。ちょっと待ってください。少し考えてみます」


 モニターに映った一眼レフの少女は、腕を組みながら、本当にうーんと唸りながら考えていた。組んだ腕の上にはカメラと、それから、僅かならぬ彼女の胸の膨らみがあった。僕はそれに一旦目を奪われたが、慌てて目を逸らす。


 僕がフローリングの縞々の本数を六つほど数えたところで、一眼レフの少女がようやく答えを出した。


「香具師君が即断してくれるのでしたら、別に家の中でゆっくり話す必要はありません」


「即断って?」


「『いいですよ』と香具師君が答えてくれることです」


 つまり、一眼レフの少女がしたがっている〈大事な話〉とは、僕に対して何らかの許諾を求めるものらしい。

 そのことが分かったことで、僕の頭は混乱する。僕が不登校になって、引きこもりを始めてから、もう半年以上経っている。半年以上、僕は、外の世界との接点を有していない。社会において僕は、何のポジションも占めていないのである。

 そんな僕に対して、一体何の許諾を求めようというのか。一眼レフの少女の思惑が全く読めなかった。


「では、早速香具師君にお願いなのですが」


「待ってください。そのお願いって『家に入れて』とかではないですよね?」


「なんですかそれ? 一休さんのトンチですか?」


「もしかして『内臓を売ってください』とか?」


「うーん……遠くはないかもしれません」


 否定されなかったことに驚く。臓器売買のオファーと『遠くはない』とは一体どういうことだろうか?

 そのお願いは、果たして僕が即断できるようなものなのだろうか。


 ヴゥオオン――。


 バイクのマフラー音が聞こえた。


「香具師君」


 一眼レフの少女が、インターホンのカメラを真っ直ぐに見つめながら、言う。


「新聞部に入部してくれませんか?」


「いいですよ」



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