茶屋、水天一碧の女神様

軽田おこめ

一. 不運な日(1)

 人間は少なからず悩みを抱えた生き物である。産まれた家柄について、自分自身の性格について、価値観の違いについて、仕事について、恋愛について、勉学について────などなど。例えをだせばキリがない。悩みなんて人の数だけあって、その量も質も受け止め方も人それぞれなのだろう。だからこそ人は人に悩みを打ち明け、解決策を生み出す。第三者の意見を取り入れるのはとてもいい方法だ。自分だけでは導けなかった”何か”に気づけるかも知れないから。


「ねぇ、聞いてる!?女神様!どうしよう!ねぇ、どうやって誘えばいいかなぁ!!!??」


(知らねぇ〜〜〜)


 それはそれとして。

 自分で解決できる悩みくらい自分でなんとかしてほしい。袴の上にエプロンをつけた少女───神谷水聖かみやすいせいは優しい笑顔を浮かべたまま、心の中でそっとため息をついた。カウンター席で項垂れている武士の男は、かれこれ2時間くらいノンストップで駄べり続けている。その内容は”気になっている女性にどうアプローチしたらいいか分からない”といったものだった。知らない、本当に知らない。どうでもいいし、そんなことは自分で考えてくれ、頼むから。そう何度心の中で叫んだとしても男の態度は何ら変わらない。当たり前だが、その当たり前が少しだけもどかしい。

 ふと、視線を逸らすと彼の目の前に置かれた真っ白なカップが目についた。一時間程前に空となったそれにくっきりと珈琲渋が付着していたからだ。


(あぁ、洗いてぇ)


 あれは落ちないかもしれないなぁ、この前重曹を入れて洗ったばかりなのに────。


「ちょっとちょっと、女神さん。ねぇ聞いてる??」

「もちろん、聞いてますよ。うーん、もう少しそのお相手の話を聞かせてもらえませんか?何かいい案が浮かぶかもしれませんし」


 不満そうに眉をひそめた男に、取り繕うように口からでた言葉。やべ、と思った。火に油を注いでしまった、だなんて失礼だと分かっていながらも思ってしまう。自分から話の種を蒔いてしまうなんて。


「彼女のこと?そうだなぁ、」


(……あぁ、やってしまった)


 目を輝かせながらその”彼女”に思いを馳せる男はもう止められないだろうと悟った。仕方ない。そもそも彼が満足できるような答えを言葉にできない自分にも問題はある。責任を持って最後まで聞くことにしよう。


 水聖はにこりと笑いながら近場にあった柑橘を手に取った。人の話を聞く時は相手の目を見ること。これは常識である。とはいえ、もう2時間もそうしていたのだ。そろそろ破ってもバチは当たらないだろう。このままでは明日の分の仕込みが何も終わらない。未来の自分にあまりに酷すぎる。

 そんな思いなどまるで知らない男は嬉しそうに語り出した。


「まず彼女ね、いつもお花の匂いがするんだよね〜。彼女が使ってた栞もお花柄だったし、きっと花が好きなんだと思うんだ!」

「へぇ〜」

「素敵だよね!お花が好きな女の子!あと、彼女読書もするんだ!ブックカバーついてるから何読んでるかまでは分からないんだけど……多分ミステリーとか読んでると思うんだよね。頭良さそうだもの!」

「ふむふむ」

「それにそれに!彼女、多分クールなんだよね。そこもまた素敵なんだぁ〜!ショートカットで顔立ちも大人びていていつも落ち着いていて。きっと、カッコよくて無口なんだと思う!僕が笑わせてあげたい!だなんて思っちゃうんだ!……話したことないんだけど……」

「なるほどぉ〜」

「もう1週間も会ってないんだ〜。同じところで働いてても職種が全然違うからさ……会えるかどうかは運次第って感じなんだ……」


 トントントン。一定のリズムを刻んでくし形切りにしていく。皮はつけたままの方が可愛らしいかと思い、今回はあえて残してみたが正解だったようだ。コロンと転がる可愛らしい柑橘たちも見て、盛り付けする時に映えるだろうと思った。


(……ていうか、話したことないんかーい)


 心の中で特大のツッコミを入れ、心の中でため息をついた。

『彼女はこんな所があって〜』『彼女はこうで〜』などと話す仕草から相手は”付き合いのある女性”だとばかり思っていたが、どうやらそれは間違っていたらしい。完全なる一目惚れってやつではないか。


(……いや、これに関しては私がもっとちゃんと聞いとくべきだったか。決めつけや思い込みが一番よくないって分かってたのになぁ ……)


 男がだらしない顔を浮かべている中、水聖は一人反省会を開催する。人の悩みを聞く時に一番気をつけている部分だった、のに。これってかなり難しい。気がつくと『この人はこういう人だろう』という決めつけや『この人が悪いのではないか』という思い込みに支配されてしまう。相手の人柄や人生、感情を全て理解するなんて不可能なのだから、どんな時でも平等でいなければならない。──というのはかなりの理想論であるが。しかし今回に関してはもう少し親身になって話を聞いていればすぐに分かったことだろう。彼ならきっとペラペラ喋っていただろうから。


 反省反省、と心の中で唱えているとニコニコ、いやニヤニヤと笑う男が頬杖をついて「それでさ〜」と言った。


「今度デートに誘いたいんだ〜。そのデートで花束渡したいんだけどさぁ〜何の花だったら喜んでくれるかなぁ」


 口角を最大限まで吊り上げ、宙を見上げる男。そんな男が呑気な声で言い放った爆弾発言に、水聖はピクリと眉を上げた。話したこともない相手に突然のデートのお誘い。そして花束をプレゼント。その難易度の高さを彼は理解しているのだろうか。


(恋は盲目ってまさにこの事だなぁ)


 恋愛なんてそれなりにしか経験してこなかった水聖でも分かる。今の彼はかなり現実が見えていない。足元がフワフワとしていて覚束無い空間をひたすら前に進んでいるように見える。恋は人を狂わせる、なんてよく言うがまさに彼を見ていたらそう思うだろう。耐えられず哀れみの目を向けてしまうも、水聖など全く見えていない男は今の尚「お花詳しくないんだよなぁ〜」などと呟いている。


「ねぇ女神様は花言葉とか詳しい??」

「そうですね……。そこまでではないですが、多少は知っていますよ」

「へぇ〜。さすが女神様。綺麗な趣味があるんだねぇ〜」


 趣味というほどでもないが。しかし否定するのも面倒で「ありがとうございます」と言った。この男は水聖になどまるで興味を示さないので明日になったら忘れているだろう。正しいことを伝える必要もない。


 さて、そろそろ本格的に帰ってもらいたい。もうすぐ閉店の時間だが、できればその前には追い出したいのだ。仕事が何も終わっていない。完全に自分の首を締めている。いつもの事だが。

 途中からただ彼が駄べっているだけで相談の体をなしていない気もするが、当初の悩みだった”どうアプローチすればいいか分からない”という問題を水聖なりに解決しようと思った。


「ところでお客様、柑橘系はお好きですか?」

「……柑橘系?」


 突然のその発言に男は素っ頓狂な顔をした。まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情である。男は頭にはてなマークを浮かべたまま「好きだけど?」と呟くと、水聖はクスリと笑いながら今しがた切り終えたばかりの柑橘を一つ、男の前に差し出す。


「ん?何これ?」

「さて、問題です。こちらの果物。どんな味がするでしょうか」

「え?あじ?」


 また状況が飲み込めなず目をパチクリさせる男に指を立てて言った。皿の上に転がるそれは鮮やかな黄色が美しい小さめの果物である。男はその皿を恐る恐る持ち上げて、角度を変えたり匂いを嗅いだりしている。その姿はまるで初めての餌を前にした犬のようだった。

 一通り観察を終え満足したのか、皿を置いた男は水聖を見上げて言った。


「え〜?これレモンでしょ?酸っぱい味だよ。俺食べたことあるよ〜」


 当たり前だろう、と言った口ぶりである。それは先程と同じ口ぶりだと思い、水聖はふふ、と笑って答える。


「あら、珍しいですね。レモンを召し上がったことあるのですか?」

「仕事で外国にも行くからね〜。その時にね〜」


 得意げにふふん、と鼻を鳴らす男。自信満々といった表情に水聖は続けて言った。


「それでは食べてみてください」

「え?いいの?」

「えぇ、サービスです」


 男は不思議そうな顔を浮かべたまま皿と水聖を交互に見つめ、小さく「じゃあ、いただきます」と呟いた。そして、パクリとそれを口に入れる。武士だというのにかなり純粋で従順だと思う。これで大丈夫なのだろうかと思ったが、すぐにその思いを打ち消した。これでは彼のことを責められないと思ったから。

 数秒して、男の表情がみるみるうちに笑顔になっていった。顔に美味しいと書かれているようである。随分と分かりやすい男だ。


「ん〜!美味い!え、でもこれ全然酸っぱくないよ!」


 頬を抑えてうっとりとする男は少しだけ驚いたように目を丸くした。レモンだと思って食べたのだから当然の反応だと思う。残った皮をヒラヒラさせながら混乱している様子の男にふふふ、と笑って言った。


「これは黄金柑って呼ばれる果物なんですよ。見た目や色はレモンみたいですが、酸味が少なくて甘いのが特徴的なんです」

「へぇ〜。こんなのがあるんだ、知らなかったよ〜」


 知らないのも無理はないだろう。この辺りではあまり流通していない果物だ。水聖がこれを知っているのだって、旅好きの両親がいろいろな国や地域の特産物を送ってくるおかげに過ぎない。


「でもなんでこれを?」


 男は不思議そうに眉をひそめ水聖を見上げた。水聖は答える。


「貴方は今、この果物をレモンだと思いました。違うと分かってどんな気分ですか?」

「うーん……。騙された!と思ったかな」

「それです」


 思った通りの反応を示す彼にズイッと顔を近づけ人差し指を立てる。


「人間は表面だけでいろいろなことを考えてしまいます。見た目だけで味を想像したり、食感を想像したり、中身を想像したり……。いろいろなことを考えられるのが人間のいい所でもあり欠点でもある」

「うーん??確かに??」

「ですのでこれは、相手が人間でも起こりうると思うのです」


 ふわり、と笑ってみせる。聖母の笑みだと巷で言われている笑顔だ。そんな笑みに男は一瞬呼吸を忘れてしまい、生唾を飲み込む。


「あなたが今彼女にある印象はあくまで表面上のものばかり。本当の彼女をまだ知らない状態です。まずは彼女を知るところから始めてみるべきでは?デートのお誘いももちろん素晴らしいことですが、彼女を知るための会話をしてみることからだと私は思いますよ」

「か、彼女を知るための会話ってどんなの……??」

「好きな物とか、嫌いなものとか、趣味とか。そういう、中身の話です。それが知れたら、さらにデートに誘いやすいと思いませんか?」


 その言葉を聞いた男は目をまん丸に見開いて「そ、そうだね!」と言った。本心だろうなと思える表情だった。


(よかった、分かってくれる人だ)


 純粋な人間というのはこういう時にとてもいいと思う。まっすぐ人の意見を受け入れられるのは誰でも出来るわけではない。

 うんうん、と何度も頷きながら納得している様子の男を見て心から微笑んだ。


「こうしてはいられない!」


 すると突然。男がテーブルをガタンと叩いて立ち上がった。その目には先程までの温厚さはまるでなく、まるで戦場に行く戦士のような鋭い眼光があった。


「ありがとう!女神様!ちょっとその子と話してくる!」

「え、ちょ、」

「それじゃあ!!」


 それだけを告げ男は一目散に店を出ていった。流石は軍人、といった素早い動きに数秒間呆気にとられる。─────そして。ようやく現状を理解し、大切なことに気がついた水聖は慌てて扉の方に手を伸ばす。


「お兄さん!お勘定!」


 しかしそれは扉がバタンと閉まった後のことだった。まさかの無銭飲食。国を守る立場にある人間が、だ。

 そもそももう一週間も会っていない、会えるのは運次第だと言っていなかっただろうか。もし運良く会えたとして、その先のプランは考えているのだろうか。まさに猪突猛進、勇往邁進。この言葉はあの男にあるようなものである。


「……まじかよ」


 その場で水聖は呆然と立ち尽くした。なんて事だ。こんな時間まで話を聞いていたというのに、代金さえ貰えないなんて。


(こんな惨めなのに、どこが”女神”なんだよ)


 行き場をなくした手をゆっくり下ろして、深い深いため息をついた。


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