元魔法具修復師の毒言独語 ~異世界の偏屈爺、かく語りき~
ゆきむらちひろ
01:転移魔法を使うな、歩け
筆者:石臼翁
近頃、馴染みの酒場で冒険者たちの自慢話に耳を傾けていると、どうにも腑に落ちない言葉をよく聞くようになった。「タイパ」というらしい。なんでも「タイムパフォーマンス」の略だとかで、費やした時間に対してどれだけの成果が得られたか、という物差しなのだそうだ。
なるほど、実に合理的で結構なことだ。
先日も、まだ頬の産毛も柔らかそうな若者たちが、『奈落の迷宮』の最下層まで半日で到達したと高らかに語っていた。聞けば、好事家が売りに出した高価な「転移の巻物」を仲間内で金を出し合って手に入れ、一気に五十階層まで跳んだのだという。そして、待ち構えていたという竜を数人がかりで討伐し、見事に「伝説」とやらをその手にした、と。
周囲はそれを羨望の眼差しで見ていたが、私にはどうにも、彼らが手にしたものがひどく薄っぺらいものに見えて仕方がなかった。
私がまだ、背中に剣を一本差して日銭を稼いでいた頃の話だ。
迷宮に潜るというのは、それ自体がひとつの儀式のようなものであった。羊皮紙に木炭で一歩ずつ地図を書き込み、仲間と交代で見張りをしながら冷たい石の上で仮眠を取る。水筒の水は一口ずつ大事に飲み、携帯食の干し肉の塩辛さが生きていることを実感させてくれた。壁の染みひとつ、空気の淀みひとつが、我々にとっては貴重な情報だった。この先の角に罠があるかもしれぬ、あの壁の向こうからは水の音がする、と五感を研ぎ澄ませて進んだものだ。
それは確かに、時間ばかりがかかる非効率なやり方だったのだろう。しかし、私たちはその過程で、迷宮そのものと対話していたように思う。
設計者はなぜ、これほど長く、かくも入り組んだ通路を造ったのか。なぜ、一見して無意味な場所に奇妙な彫刻を置いたのか。それらを考え、解き明かそうとすること自体が、冒険ではなかったか。道中で見つける、発光する苔の群生地の美しさ。名も知らぬ小動物が、我々の残したパン屑をこっそり運んでいく愛らしさ。そういった、目的とは何の関係もない発見にこそ、心が震えたものだ。
効率を求めるあまり、彼らはそうした道のりのすべてを捨て去っている。それは、極上の果実の皮だけを剥いて、中身を味わわずに捨ててしまうようなものではないだろうか。
彼らは言う。重要なのは「結果」だと。竜を倒し、宝を手に入れることこそがすべてなのだ、と。しかし、果たしてそうだろうか。
苦労を知らずに手に入れた力は、己の身の丈に合わぬ。ただ重いだけの剣は、いざという時に振るうことすらままなるまい。
そもそも、その「伝説の剣」がなぜそこにあり、竜がなぜそれを守っていたのか。その背景にある物語を読み解こうともせず、ただの「アイテム」として回収する。それでは、古物商が値打ちもわからぬ客に名画を売り渡すようなものだ。絵はただの絵の具の塊となり、剣はただの鉄の延べ棒に成り下がる。物の価値というのは、その物自体にあるのではない。それと出会うまでの道のりや、それを使う者の心映えによって、初めて生まれるものなのだ。
転移魔法で跳んだ先は、迷宮の終わりかもしれぬが、冒険の終わりでもある。そこにはもう、未知への期待も、困難を乗り越える喜びもない。ただ、目的を達成したという空虚な達成感と、次は何を「効率的」に手に入れようかという計算が残るだけだ。
これも時代の流れというものなのだろう。老いぼれの戯言と聞き流されてしまえばそれまでだ。
だがもしこれを読んでいる若い方がいるのなら、ひとつだけ覚えておいてほしい。人生という最も深遠な迷宮には、残念ながら「転移の巻物」は売られていない。回り道や、一見無駄に見える足踏みにこそ、思いもよらない宝物が隠されているものである。
もちろん、それが紛うことなき宝物であると判断する目利きがなければならないのは言わずもがな。果たして「タイパ」を重視する者たちの目利きがどれほどのものなのか。私は疑問に思えてならないのである。
-了-
※次回の更新は、23日(水)の朝8時です。
※週1回の更新となっています。
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