夏を漕ぐ

惣山沙樹

01

 JR立花駅に着きワイヤレスイヤホンを外すと蝉の大合唱に包まれる。八月、お盆真っ盛り。電車が空いていたのは良かったが問題はここからの道のりだ。会社――尼崎税務署までは徒歩二十分。

 ワイシャツの下に着ている綿百パーセントの肌着がじんわりと僕の汗を吸ってくれていることを感じながら歩を進める。夏休みをとるなら観光地に人が少ない九月にと思ってそうしたのだが、僕はあらゆる意味でその選択を後悔していた。

 理由一つ目、単純に暑い。この炎天下に通勤などしている場合じゃない。やはり安達あだちさんのようにオーストラリアに旅行するくらいのことはするべきだったのだ。

 理由二つ目、ただでさえ暑いのに暑苦しい人と仕事を組まされることになった。指導担当の安達さんがいない代わりに、徴収職員一年目の僕に付けられることになったのは、縦にも横にもデカくて噂では体重百キロ超えという再任用のオッサン、仁科にしなさん。

 この仁科さんが曲者でなかなか馴れ馴れしい。尼崎税務署に着任して一発目の飲み会でいきなりこうだった。


「ほなよろしくな、悠真ゆうま!」

「えっ、あ……下の名前っすか。それ職場ではどうなんっすか」

榊原さかきばらくんて言うの噛みそうやん」

「今言えてましたよ」


 僕のツッコミはスルーされた上に取り皿に勝手に唐揚げを盛られ、仕方がないのでビールで流し込んで仁科さんを観察したのだが、これまた落ち着きがないのだ、あちらこちらへビールジョッキをぶつけに行って言いたいことを言って立ったままつまみを食う。もはや台風ではなくハリケーンだ。

 仕事中も無駄話が多く用事のついでに野球や釣りや麻雀の話をくっつけるのが常であり、総務課に行くと一時間は帰ってこないので同じようなことをしている様子である。

 ちなみに再任用、とは一旦定年退職して再就職した職員のことを指す。小耳に挟んだのだが仁科さんの現役時代最後は田舎の統括官、つまりは「ぶっちゃけたいしたことない」ポストで終わったらしいのだがあの無駄話の多さを勘案すればそれも納得だ。

 安達さんからは色んな職員のやり方を見た方がいいと言われ勉強になりそうですぅとしおらしく返事をしたが、そもそも徴収部門は希望ではなかった。僕の第一希望はバリバリの調査、法人部門だったのだ。なぜそれが通らなかったのかは人事のみぞ知るというもので理由は永遠にわからない。

 会社に着いてまずは男子更衣室に駆け込んだ。上半身裸になりデオドラントシートで入念に汗をぬぐい新しい肌着を着た。カバンの中にはさらに帰り用の肌着も入っている。一日三枚肌着を消費するせいで洗濯は毎日やらねばならないが、一人暮らしを機に思い切って購入したドラム式洗濯機が心強い味方だ。

 徴収部門のフロアに移動して荷物を整理して納付相談ブースの筆記用具の確認と雑巾がけ。徴収部門とはネチネチ締め上げて差押えして取り立てるこわーい部門というイメージが付きがちだが、実際は納付相談が主であり、滞納者の生活ぶりを落ち着いて聞き取り分納計画を一緒に立てるのだ。だからこの場所はいつも綺麗にしておく必要がある。

 お盆に休みを取った職員は多いらしくちらほらとしか出勤しない中、出た、仁科さん。


「おはよう悠真! 今日から頼むわな!」

「おはようございます。よろしくお願いします」


 仁科さんはどっかりと席に座るなり扇子をパタパタ。とてもあの体型をどうにかできる風量には思えない。ハンディファンなら最近は安くて強いのが沢山出ているから買えばいいのに。

 安達さんが休みの五日間はこのオッサンとべったり一緒かと思うと一旦引いた汗がまた吹き出そうだったが、僕はパソコンを開いてメールの確認をして気をそらした。

 朝礼では連絡調整官、通称連調が予定の確認やら注意喚起やらをする。連調は二番目の奥さんと離婚協議中であり親権で揉めているらしいのだがこの手の話題が聞きたくなくても耳に入るのがこの職場の特殊性だろうか。僕が彼女いない歴イコール年齢であることも確実に会社中に知れ渡っている。

 朝礼が終わって仁科さんに呼ばれたのでデスクに寄ると彼の机の上には印刷された尼崎の地図。


「今日回るとこは全部頭に入れた。悠真は俺に着いてくるだけでええよ」

「はい、わかりました」

「十件な」

「十件っ!?」


 僕は視線を動かし地図につけられたピンク色のマーカーの数を数えた。確かに十。どう数えても十。


「そんなに一日で回れますか?」

「チャリやったら楽勝や。それに話長引いて時間足りんくなったら何個かは飛ばすし」


 今回僕、というより仁科さんに与えられたミッションは、長期間接触できていない焦げついた事案の処理。電話しても出ない手紙送っても返事ない来ない、それならばと自宅や事務所に「臨場」して進展をはかるのだ。

 統括官は仁科さんに交通法規の遵守とこまめな水分補給を言い渡した後僕にぼそっとまあ頑張ってと言った。


「ほな行くで!」


 電動自転車のバッテリーを勢いよく引き抜いた仁科さんに続いて僕もおずおずと隣のバッテリーを抜き取り、会社裏の駐輪場に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る