第4話:婚約者の疑惑と、情報の代償
王宮という場所では、“知っていること”が命を奪い、守る。
その日、イレーヌ嬢はめずらしく授業を途中で切り上げた。
控え室で彼女の姿を見かけたとき、その肩が小さく震えているのを、私は見逃さなかった。
「お嬢様。何かご心配ごとでも?」
声をかけると、彼女はピクリと肩を揺らし、振り返る。
その目は強がってはいるものの、焦燥に縁取られていた。
「……たいしたことでは、ございませんわ」
「では、たいしたことになる前に、共有いただけると嬉しゅうございます」
イレーヌはしばし逡巡し――やがて、口を開いた。
「……わたくしの執務室から、“帳簿”が盗まれました」
「帳簿、でございますか?」
「ええ。……正式なものではありません。王宮内で動いている、“非公式”の金の流れを記録した……わたくし個人のメモです」
それが何を意味するのか、私はすぐに理解した。
イレーヌ嬢は、王太子妃候補として、政敵たちの金の流れを把握していた。
その帳簿が第三者に渡れば、逆に彼女自身の命が危険にさらされる。
「怪しい人物は……?」
「数人。騎士の中に、内通者がいるかもしれません」
「……お嬢様。わたくしに、調査の許可をいただけますか?」
イレーヌはわずかに目を細め、私を見つめた。
「“教育係”にしては、ずいぶん行動範囲が広いのね」
「お嬢様の教育とは、危機管理を含むものと存じます」
皮肉のようなやり取り。だが、イレーヌは頷いた。
「いいでしょう。……でも、あなたが“調査”で得た情報、わたくしにも共有してくださいな。そういう“取引”で」
取引、か。
この娘は、本当に侮れない。
「承知いたしました。……お嬢様には、代償として情報をお渡しいたします」
そしてその夜、私は再び仮面をつけて王宮を抜けた。
調べをつけた先は、南棟の地下倉庫。
昼間は使用されず、王都との出入り業者が時折立ち寄る場所だ。
そこには、かつての知った顔がいた。
「……久しいな、ミレイ」
仄暗い灯りのもと、現れたのは――私の元“弟子”、セドリック。
十年前、まだ私が“表”の顔を持たぬ頃、唯一暗殺術を教えた若者。
だが彼はあるとき、私のもとを裏切り、姿を消したはずだった。
「あなたが……帳簿を?」
「そう思っていい。だが、それだけじゃない。――宰相派が、イレーヌ嬢を殺すために動き出してる。
この情報を聞いたら、王太子も“君を切り捨てる”かもしれん」
私は、短剣に手をかけた。
「ならば、あなたから“取引”で聞きましょう」
「相変わらずだな。冷たい目をしてる」
「“教育係”は、必要のない感情は持ちません。あなたもそれを教えられたでしょう?」
セドリックは皮肉な笑みを浮かべ、手紙の束を投げて寄越した。
「ここに全てある。“代償”は、お前の顔をもう一度見られたことだ」
帰還した私は、イレーヌ嬢に書状の一部を渡す。
「南棟の管理名義が、一部貴族派の者へと変更されておりました。そこが、件の帳簿の流出源です」
「……まさか、あなた本当に調べてきたの?」
「お嬢様に必要とあらば。教育の一環です」
イレーヌはわずかに困惑しながらも、視線をそらした。
「あなたは、どこまで“教育係”でいるつもり?」
「それは、仮面が剥がれるその日まで、でございます」
その言葉を、彼女がどう受け取ったかは分からない。
だが、仮面の奥にあるものが、また一つ、宮廷に影を落としていく。
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