第17話 『警察犬ドーベルマンとの死闘』
暗い夜の平地に、吠え声が響いた。
僕は逃げ場を失っていた。高架下から開けた平地へと誘導され、背後には密集する草むら、左右には川と道路。前方には、鋭い牙を持つ二匹のドーベルマンが待ち構えていた。
「くそっ……っ!」
警察犬の片方が飛びかかってきた。
足に重みと激痛が走る。腐った皮膚が簡単に裂け、奥の筋肉にまで牙が食い込んだ。
咄嗟に手を伸ばすと、もう一匹が腕に噛みついてきた。
「がっ……!!」
激痛で視界が白くなる。
足を噛まれ、腕も奪われた。
僕は河童だ。だが、痛みはある。腐ってもなお、神経が残っている。
──だが、これはあのときの雑種の野良犬たちとは違う。
以前この河川敷で飢えた野良犬を三匹ほど食った。あれは空腹で狂っただけの獣だった。
だが今目の前にいるのは、訓練された殺しの道具だ。
人間の指示に従い、恐怖を覚えず、命令のままに襲いかかる冷酷な兵器。
その違いを、僕の身体は本能で悟っていた。
(ここで……殺される……わけには……っ)
ドーベルマンの唸り声が耳元で鳴る。
足に食らいついていた一匹が口を開け、今度は喉元を狙って跳びかかってきた。
「ぐあああああっ!!」
その瞬間だった。
僕の爪が咄嗟に振るわれた。
腐り落ちかけた手指の間から、鋭利に伸びた爪が獣の首を切り裂いたのだ。
ばしゅ、と濁った音がして、犬の頭が飛んだ。
ちぎれた頸椎から血が噴き出し、首の断面から剥き出しの脳が覗いた。
「はぁ……はぁ……」
返り血を浴びながら、僕は崩れ落ちるドーベルマンを見下ろした。
その目はまだ見開かれていたが、もう動かなかった。
もう一匹が唸りながら距離を取る。
僕の返り血と殺気に怯えたのかもしれない。
そのときだった。
「……あ……あ……な、な……なんだ……こいつ……」
警察犬の後ろにいた警察官が、僕の姿を見て声を漏らした。
制服の男は顔面蒼白で、足がもつれて尻もちをついた。
「う、うそだろ……人間……じゃ……ねぇ……」
恐怖のあまり、腰が抜けて立ち上がれない。
その姿を僕は見た。
かつて、僕を見ても何もしてくれなかった、あの“教師”たちの顔と同じだった。
僕は、にたりと口を歪めた。
「おれ……まだ……死な……ね……」
言葉にならない呻きが喉から漏れた。
だが、その意思だけは、はっきりしていた。
ここで、終わるものか。
腐っても、まだ生きている。
──殺すまでは。
ドーベルマンの唸り声が、重く湿った夜気に混じって響き渡った。
僕の左足には、さっきの死闘で噛みつかれた傷が生々しく残っている。皮膚は裂け、腐った肉片がぶら下がり、骨の一部が覗いていたが、まだ辛うじて歩ける程度の損傷だった。それでも、残った一匹のドーベルマンは、返り血を纏った漆黒の毛並みを揺らしながら、獲物を狙う獣の目で僕を睨んでいた。
以前、ここ河川敷で喰った雑種の野良犬三匹とは違う。
警察犬──それも訓練されたドーベルマンの動きは、無駄がなかった。
感情より任務を優先するその目には、僕の異形さえ恐怖とはならない。
次の瞬間、鋭い唸り声とともに、奴が飛びかかってきた。
標的は──左手。
「ぐっ……がああああっ!!」
鋭い牙が手首に食い込んだ。
ぐしゃ、と嫌な音が鳴り、腐った筋肉と膿んだ皮膚が引き裂かれる。骨が砕け、神経が断たれ、激痛が全身を駆け巡った。
ちぎれた左手首が、ドーベルマンの口にぶら下がったまま振り回されている。
飛び散った膿と黒血が夜の空気を腐らせ、土に染み込み、蠅が群がり始めた。
「……ふ、ざけ……んな……ッ!!」
僕の右手が、反射的に動いていた。
膿に濡れた腐敗した指先から伸びる爪が、鋭い閃光のように夜空を裂いた。
ドーベルマンの目が見開かれた。
だが次の瞬間、爪がその頭蓋に突き刺さった。
ぐしゃ、という湿った破裂音。
脳漿が飛び散り、犬の頭部がぐにゃりと歪んで崩れた。
眼球が飛び出し、舌がだらりと垂れ、身体がゆっくりと地面へ沈んでいく。
その口から、僕の手首がぼとりと落ちた。
白濁した膿と混じった血液が、じゅわ、と地面に染み込んでいく。
「……はぁ……っ、は……あ……」
呼吸が乱れ、片腕の断面から血と膿が滲み出る。
意識がぐらつく。
しかし──僕はまだ死んでいない。
遠くで、足音が止まる音。
視線を向けると、一人の警察官が、腰を抜かしてへたり込んでいた。
制服の襟元から汗が滴り落ち、顔は恐怖に引き攣っている。
その目が、僕を見ていた。
いや、僕のようで僕ではない、異形の存在を見ていた。
「……あ、あ……人間じゃ……ねぇ……」
震える声が、喉の奥から絞り出される。
だが、もう一人──さっきまで後ろにいた別の警官は、二匹の警察犬が崩れ落ちるその瞬間、悲鳴も上げずに踵を返して逃げていった。
僕は、それを見て嗤った。
裂けた口の端が吊り上がり、乾いた笑いが喉で震えた。
「おれ……まだ……死なね……」
言葉にならない呻きだった。
でもその奥に、確かな意志が宿っていた。
この腐りゆく肉体でも。
この欠けた身体でも。
──狩りは、終わっていない。
誰も……逃がさない。
僕は、泥と膿にまみれた地面にしゃがみ込み、ちぎれた左手首を拾い上げた。
それは、まだ温かかった。
腐った肉が千切れた断面からは、血と膿が混じった液体がとろりと垂れている。
手の指はわずかに痙攣していた。まるで、まだ僕の一部であろうとしているかのように。
「……も、どれよ……っ」
僕は、泣きそうな声で呟いた。
そして、ちぎれた手首を、自分の左腕の断面に押し当てた。
「……くっつけ……くっつけよぉ……っ……!!」
皮膚と皮膚が触れ合う。骨の断面が擦れる。だが──何も起こらなかった。
ずるり、と手首は滑り落ち、また地面に転がった。
「う、あああああああああああああああっ!!!」
喉の奥から、獣のような叫びが漏れた。
腐った肺が震え、皿がぐらぐらと傾いた。
膿と涙と血とで顔中がぐしゃぐしゃになりながら、僕は吠えた。怒りに、悲しみに、絶望に。
──もし、僕がまだ人間だったら。
もしこの姿になる前だったら、きっと病院に行けば手首もくっつけられたはずだ。再接合手術は不可能じゃない。そう思えるだけの理性が、まだかろうじて脳の奥に残っていた。
けれど──今の僕は、河童だ。
腐った肉と膿の塊でできた怪物。
どこの医者が、こんな化け物を治してくれる?
どんな病院の手術台が、僕を受け入れてくれる?
──そんな場所は、どこにもない。
その現実に、心の奥底から絶望が染み渡っていく。
僕は、世界から完全に見捨てられた存在なのだ。
その時だった。
まだその場に腰を抜かしていた一人の警察官が、震える手でホルスターに手を伸ばし、拳銃を抜いた。
「……く、来るな……っ……来たら、撃つぞ……っ!」
その声はかすれていた。喉の奥で詰まっていて、恐怖に押し潰されたような音だった。
彼の全身は汗でぐっしょりと濡れ、肩が小刻みに震えていた。
僕は立ち上がった。
ふらつく足を引きずりながら、ぐずぐずに崩れた身体で、ゆっくりと彼に向かって歩き出す。
彼の瞳孔が開いていくのが分かった。
僕を見るその目に、「人間」への認識はもはやなかった。
そこに映っているのは、ただの“怪物”。
「やめろ……やめろ……来るな……っ……ッ!!」
拳銃の銃口が、震えながら僕の額を狙った。
だが僕は、止まらなかった。
──これが、僕の“戦い”だ。
この腐りきった世界への、復讐だ。
僕の心は、もう泣いてなどいなかった。
僕は、銃口を向けられても一歩も引かなかった。
泥と血にまみれた足元から、じゅくじゅくと膿が滴っている。腐臭と熱気がまとわりつき、警官の顔が明らかに恐怖に染まっていた。
「やめろ……ほんとうに撃つぞ……っ……!」
彼の声は震え、かすれていた。額から脂汗が流れ、拳銃を握る手がぶるぶると震えているのが見える。
それでも、僕は前に進んだ。
泥に沈む足を引きずり、肩を上下させながら、腐った身体を引きずるようにして。
脳の奥に響くのは、無音の叫び。
何も感じない。怖くない。怒りと絶望に満たされた僕の中では、死の予感さえも薄れていた。
──パンッ!
──パンッ!
──パンッ!
3発の銃声が、夜の河川敷を切り裂いた。
ひとつは僕の右耳の横をかすめ、草地の奥に土煙をあげた。
もうひとつは左の草むらを引き裂いた。
そして、最後の一発──。
それは僕の頭の皿をかすめた。
「──ッ……!」
瞬間、皿に激震が走った。
鋭く乾いた音と共に、皿の端が粉々に砕けた。
破片が頭皮を突き破り、脳にまで届いたのではと思える痛烈な衝撃。
視界が一瞬、真っ白に染まった。
ガクン、と膝が折れかけた。
耳の奥で鼓膜が軋む音。
血混じりの膿が耳から流れ出し、視界の隅が揺らいだ。
「……ぐ、が……っ……」
うまく言葉にならない。
だが、僕の足は止まらなかった。
欠けた皿の破片がずり落ち、泥の中に沈んでいくのが見えた。
けれど、もう取り戻せないものに未練はなかった。
警官は絶望したような目で僕を見つめていた。
さっきまで震えていた指が、今では完全に硬直している。
彼の喉がごくりと動き、口がわなわなと開いた。
「……な、なんだ……お前……っ……化け物か……っ……」
その言葉は、僕にとっては褒め言葉だった。
僕は止まらない。
世界が拒絶しようと、肉体が崩れ落ちようと──
この身体で、僕は全てを取り戻す。
復讐の名の下に。
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