第10話 『見てしまった代償』
夜の貯水池。
風は止み、月は雲に隠れ、あたりには静寂と湿った匂いだけが満ちていた。水面は黒く、油膜のように不気味にゆれている。
僕は、その水面すれすれから、じっと“それ”を見上げていた。三脚。スマホ。懐中電灯の微かな明かり。
道路の先に、ひとつの人影。
三脚を立て、スマホを構えた男。やせた体格にキャップ帽、胸元に下げたマイク。人間だった頃に時々見ていたオカルト系の配信者だ。
「ここだな、例の貯水池って……マジで出るのかよ……」
男の呟きが風に乗って届く。
僕は、静かに水中へ引き返そうとした。その時――。
「ん……?」
男がこちらを見た。
まっすぐに、スマホのレンズが僕の方向へ向いた。ピントを合わせるように、じわりとズームされていく。
(バレた……?)
焦りと共に、水中へ沈み込む。泥が巻き上がり、視界が濁る。
だが、耳が拾った。
「おいおい……今の、顔か? 目か……? マジでやべぇってこれ……」
その言葉に、僕の中の“何か”が震えた。水の中で、指がわななき、皿の中心が鈍く震える。
「カッパちゃん、出てきてくれませんか~?」
その軽薄な声が、水面に響いた。
「……みる、な……」
口が、勝手に動いた。
脳が痺れるような奇妙な感覚と共に、僕の声帯から出たのは、もはや“日本語”とは言い難い濁音だった。
男が驚いたように身を引く。
「な、なに今の……本当にいた……っ」
そして次の瞬間、僕の中の“衝動”が、水底を蹴り上げた。
――そして、男の顔。
「おおっ……まじかよ。ほんとに出た……うわ、これガチでヤバい。ヤバすぎる!」
その男は、笑っていた。
テンションの高い声を、周囲の静寂を切り裂くように撒き散らしながら、スマホを構え続ける。
「おいおい……やば、映ってるよ。カメラ、ちゃんと録れてる。動いてる、カッパ! こりゃ100万再生確定だろ、くくっ……!」
僕は水の中で、ゆっくりと、爪を立てた。
背中の甲羅が水に揺れるたび、神経が疼く。胃が、空腹を訴えて鳴る。
(笑ってる……僕を、“おもちゃ”みたいに……)
指の間に、じわりと膜が浮かぶ。
胸の奥が熱い。ぬるい。ねばつく怒りが、喉まで這い上がってくる。
「おいカッパちゃん! もうちょっとこっち来てよ、もっと顔見せて? 大丈夫、何もしないって!」
――なにもしない?
「俺さぁ、オカルト系って言っても一応プロでさ。お前、バズらせてやるよ。すごいぞ、あんた。伝説になるって、マジで!」
その言葉が決定打だった。
僕の体が、勝手に動いた。
両腕が水面を割るように伸び、男の足首を、がしりと掴んだ。
「……えっ?」
声にならない声が漏れた。男は一瞬、笑ったまま固まる。
だが次の瞬間、僕は全身で彼を水中へと引きずり込んだ。
「うわっ、ちょっ、まっ、やっ……あああああ!!」
水が割れ、男の叫びが水面に消える。
彼のスマホがガシャリと音を立てて地面に転がり、三脚が倒れる。
僕は水中で、彼の身体を押さえつけた。
暴れる足。必死に水を蹴る。目を見開いて口をパクパクと開ける姿。
まるで、水族館のガラス越しに見るサカナのようだった。
苦しそうな目が、僕を見る。
「……っけ、て……っ、ぐぼっ、ごぼっ!」
なにかを伝えようとしている。
けれど僕は、もう“人間の言葉”を理解しない。
かわいそう? 違う。
見られたからだ。
笑われたからだ。
“あの日”と同じように。
「へへ……ふへ、ふひ……」
喉の奥で、笑ってしまった。
皿がずるりと熱を持ち、脳が脈打つ。
その脳からこぼれた電気が、僕の指先を走る――そして、首筋へ。
爪を立てる。
肌が裂ける。
声にならない泡が水中を漂い、赤いスジが尾を引く。
「……っ、う……」
血と泥の匂いが、鼻腔に甘く残る。
やがて男の身体が動かなくなった頃、僕はそれをゆっくりと泥の底へ沈めた。
水草が絡みつくように、彼の顔を隠す。
その目は、最後まで見開かれたままだった。
――見たものは、全部、水に還す。
そう、僕の本能が囁いた。
静寂が戻った水辺に、もう男の声も光もなかった。
スマホだけが、水際にひっそりと転がっていた。
けれど、また声がした。
「ユウジー! おーい、どこいったー?」
もう一人、いたのか。
堤の上に懐中電灯が揺れ、足音が近づいてくる。
(……もう、だれにも……)
水面に浮かび上がり、喉の奥から濁った声を発した。
「い、ら……な……い」
声を聞いて、男は立ち止まった。
「誰だ!? ふざけんなよ、脅かすなって……え?」
その目が僕の姿をとらえた。
水かきのついた手。背中の甲羅。皿から滴るぬめり。
「う、うそ……マジで……かっぱ……!?」
次の瞬間、男は踵を返して逃げ出した。
でも、僕は追わなかった。
もう、殺す必要はない。
……言葉を漏らす存在が、一人いれば充分だ。
池の底は静かだ。
誰も、僕の名を呼ばない。
誰も、僕をいじめない。
僕は水の一部になった。
ぬめりは増し、指の感覚は薄れ、言葉は泡となって消える。
それでも、皿は冷たく輝き、僕の中の“怒り”を消させてはくれない。
都市伝説? オカルト? 動画サイト?
どうでもいい。
僕にとって、ここが唯一の棲み処であり、世界のすべてなのだから。
……ただし、“人間”が来なければ、の話だ。
僕は、静まり返った貯水池の底に身を沈めていた。
水は、すべてを包み込んでくれる。
ぬるりと絡みつく藻、粘膜のようなぬめりが僕の肌を撫でる。水面に差し込む月明かりが揺れ、まるで誰かが合図しているようにちらつく。泡が口元から漏れ、それが真っ直ぐ上へと昇っていくのを、僕はただ眺めていた。
……心だけが、騒がしい。
さっきの男を沈めてから、どれくらい時間が経っただろう。
空腹は満たされた。けれど、胸の奥がきしむように痛んでいた。
(罪? 哀れみ? そんなもの……とっくに捨てた)
けれど、殺した男の顔が、まだ脳裏にこびりついていた。もがき、泡を吐きながら消えていった顔。苦痛と驚き、恐怖、そして……何かを叫ぼうとしたように動いた唇。
(なま……え……?)
けれど、僕はもう水島涼介じゃない。
人間の皮膚も声も、爪の形も、瞳の奥の光すらも。
すべてが、あの“手術”で変わってしまった。
頭の皿にそっと触れる。ひくりと、脳が震えるような違和感が走る。そこにあるのは、僕自身の証しではなく、異形の存在としての刻印だった。
そのとき。
遠く、貯水池の向こう岸で小さな足音が聞こえた。
次いで、何かが“ボチャッ”と水に落ちる音。
僕は、そっと顔を水面から出した。
そこにいたのは、犬の散歩をしていた中年の男性だった。
夜でも散歩に出るのが習慣なのか、懐中電灯を手に、水辺を照らしながら歩いている。池の縁に立ち止まり、何かを落としたのか、懐中電灯の明かりを水面に向けて覗き込んでいる。
「……あれ? どこ行ったかな……スマホのケース落としたか……?」
男性は、ポケットをまさぐりながらつぶやいた。
その声が、不意に僕の中の“何か”を揺さぶった。
皮膚がぞわりと逆立つ。
皿の中心が熱を持ち、脳の奥が泡立つようなざわめきに包まれる。
(……襲うな。落ち着け……)
そう自分に言い聞かせるのに、手が、水かきのついた指先が、微かに震える。
喉の奥から、濁った呼気が漏れる。
男がこちらを見た。
「……誰かいるのか?」
その目が、僕の姿をとらえる。
暗がりの中、僕の輪郭は人間には見えなかったはず。けれど、皿に映る月光が、その存在を際立たせてしまっていた。
男の目が、大きく見開かれる。
「……な、なんだお前……カメラ……どこだ、カメ……」
男が慌ててポケットを探る。
その瞬間、僕は身体を沈めた。
泡が激しく弾け、水面がざわつく。
男が後ずさり、そして転びそうになりながら走り去っていくのが見えた。
僕は……動けなかった。
水中で身体を丸め、ただ、震える自分の心を見つめていた。
(僕は、もう人間じゃない。だけど……)
まだ、完全には戻れない何かが、どこかに残っていた。
誰かに名を呼ばれた気がしたこと。
逃げていった男の声。
水のぬるさと、皿の熱の対比。
僕は、再び水の底に身を沈めた。
水は、静かだった。
けれど、その静けさの中で、深淵の底から、何かが僕に語りかけてくる気がした。
──お前は、これから、どこへ向かう?
答えはなかった。
ただ、僕の鼓動だけが、深く、響いていた。
■
ぬめるような夜気が、貯水池の水面を覆っていた。
僕は、その中央──深く沈んだ泥の中で、静かに目を閉じていた。
もう何時間も動いていない。小魚の群れは僕の体の周囲を泳ぎ、藻が腕にまとわりつく。
それでも、僕の心はじっとしていられなかった。
(もう、ここには……いられない)
思考の奥底に染み込むように、その結論は確かだった。
黒沢を殺した日から、すべてが少しずつ狂い始めていた。
水鳥を襲うようになり、動画配信者に姿を見られ、そして……先日の中年男性。
「見たよ……あれ、なんだったんだ……」
池のほとりで交わされていた声が、まだ耳に残っている。
彼は確かに僕を見た。名前も知らず、形も定かではないまま、何か異様な存在として……。
そしてもう一つ。
(僕は……なにをしたかった?)
復讐。
黒沢を、姉さんの真由美にあんなことをしたあの男を……許さなかった。それは終えたはずだ。
けれど、いまはただ、腹を満たし、姿を隠し、人の目を避け、眠るだけの毎日。
河童に"なった"その先で、何かを果たすつもりだったはずなのに。
……このままでは、
“河童になった理由”さえも、やがてぬめりと共に剥がれ落ちてしまう。
だから、
「……行く」
ぬるり、と体を起こす。
水中で反響する自分の声は濁っていて、どこか自分のものではないように感じた。
水面に顔を出すと、空には雲がかかり、月は霞んでいる。
誰もいない深夜。
僕は、池の縁を這い上がり、ぬめった体を水草で拭う。
足元の泥が重い。
けれど、ひとつひとつ、確かめるように歩く。
貯水池の外灯が遠くに滲む中、僕は背を向ける。
……この水は、もう僕の棲み家ではない。
次に僕が向かうのは、街の外れにある河川敷。
もっと水が流れ、風が抜け、音がある場所。
貯水池の静寂とは違う、生のざわめきがある川辺。
その音の中でなら、
僕は……僕の中にまだ残っている“何か”を、思い出せる気がした。
ぬるぬると濡れた背を揺らしながら、僕は街灯のない小道を進んだ。
月はいつのまにか雲間から覗き、夜露が僕の背の皿にぽたりと落ちた。
新しい水の匂いが、遠くから漂ってきていた。
──そして思い出す。
僕が最後に復讐すべき人間の顔。
偽善の仮面をかぶり、教室という密室で僕を笑い者にし、皆の前で公開処刑のように叱責した担任教師──市川。
さらに、僕の顔をからかい、学校全体に“いじめの空気”を生んだ四人。
首謀者・柿崎俊。
取り巻きの三輪瑛士、渡瀬駿介、そして、表では優しいふりをしていた長谷川琴音。
あの笑い。
あの視線。
そして、僕の名前が教室で侮蔑の象徴として口にされたときの屈辱。
すべてを、忘れてなどいない。
皿の上に落ちた露が、静かに蒸発していくのを感じながら、
僕は再び、夜の闇の中へ溶けていった。
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