第3話 沈んだ水底で

夜の部屋は静かだった。




 ただひとつ、スマホの画面だけが、暗い部屋の中で光を放っていた。




 母さんはもう寝ていた。姉さんは、またワンルームのアパートへ帰った。何事もなかったように玄関でスニーカーを履き、後ろ手でドアを閉める音だけが妙に耳に残った。




 僕は、自室のベッドに仰向けになりながら、右手でスマホをいじっていた。指先の動きは、機械のように滑らかだった。もはや癖だ。学校で笑われた日、黒板に描かれた“僕の顔”。怒りを感じたはずなのに、なぜかその絵に「似てる」と思ってしまった自分が、許せなかった。




 あの笑い声が、まだ耳に残ってる。水の中みたいに、ぼんやりと、でも確実に沈殿している。




 胸が重い。息苦しい。頭が熱い。




 そういう時、僕はスマホで“おかず”を探す。




 よくないことだとわかっている。でも、それで少しでも気が紛れるなら、僕にはそれで十分だった。




 画面をスクロールする。




 次第に、手が止まった。




 動画のサムネイルに、見覚えのある顔が映っていた。




 昨晩と同じ動画を無意識に僕は探してしまう。


 最近のスマホは名前が賢いとついてるだけあって簡単に盗撮動画を見つけてくれた。




 口元にガーゼのようなものが貼られ、意識が朦朧としているように見えた。白い手術着のような服。裸の肩。部屋は照明が暗く、動画には無音で文字だけが流れていた。




 『都内有名整形外科勤務の医師が、患者を盗撮』




 『麻酔中の女子大生に──』




 僕は一気に背中に冷たい汗をかいた。




 震える手で、再生ボタンを押した。




 動画が始まる。姉さんの体が、何かに押さえつけられている。見えない誰かの手が、彼女の肩を掴んでいた。




 その瞬間、僕の中で何かが崩れた。




 止めようと思った。でも、右手が止まらなかった。




 どうして。




 どうしてこんなものを見ている。




 どうして──興奮している。




 嫌悪感。自己嫌悪。だけど、止まらない。




 まるで別の誰かが、自分の手を動かしているみたいだった。




 やがて、僕は果てた。




 呼吸が乱れ、心臓が跳ねる。




 スマホの画面には、再生が止まった動画のサムネイルが映っていた。




 姉さんの、整った──あまりに綺麗すぎる顔。




 ああ、たしかに。前より、ずっと……美人になっていた。




 あの顔が、僕に似ていたから──整形した。




 「死ぬほど嫌だった」って、そう言ってた。




 ……僕の顔が、誰かを傷つけていた。




 なのに僕は、その顔を見て、昨晩よりもっと興奮して姉さんで果ててしまった。




 僕は……もう、戻れない。




 水の中で目を開けたまま、息ができなくなる夢を見た。




 きっとあれは、夢なんかじゃない。




 僕は、もう人間じゃない。




 心も、体も。







 学校へは、もう行かなくなった。




 その朝、目覚めた時、天井の模様がやけにくっきりと見えた。埃が舞う光の筋も、時計の秒針の音も、妙に騒がしく耳に入ってくる。




 制服は椅子の背に掛けられたまま。袖を通す気力なんて、どこにもなかった。




 布団の中で丸まりながら、母さんの足音が階段を上がってくるのを聞いた。ドアが少しだけ開いて、柔らかな光が差し込んだ。




「涼介、学校……」




「ちょっと……身体がだるい」




 自分でも驚くほどかすれた声だった。




 本当は違う。身体なんかじゃない。壊れかけてるのは、頭の奥の、心の奥の、もっと深いところだ。




 母さんは、しばらく何も言わなかった。ため息のような気配だけを残して、静かにドアを閉めた。




 その音が、世界との最後の接点を閉ざしたように思えた。




 閉め切った部屋は、昼間でも薄暗く、重苦しい空気が肌にまとわりついてくる。使われなくなった教科書が床に散らばり、机の上には前回の小テストがくしゃくしゃのまま投げ出されていた。




 僕はスマホを手に取る。




 画面の中に浮かぶ姉さんの顔。確かに綺麗だった。頬のラインも、目の大きさも、別人みたいだった。見違えるように整った顔──でも、それは、僕に似た顔を消すために作られたものだった。




「死ぬほど、嫌だったんだよ……涼介に似てる顔が」




 あのときの言葉が、耳の奥で何度も繰り返された。




 僕は動画の再生ボタンを押した。




 サムネイルには、麻酔で目を閉じた姉さんが映っている。


 白いシーツの上。動かない体。


 そして、その肩に触れる見知らぬ男の手──




 僕の心臓が、何か重いものを飲み込んだように鈍く鳴った。




 わかってる。これは、見ちゃいけないやつだ。


 それなのに。




 右手が、勝手に動いていた。




 暗い部屋の中、スマホの光だけが僕を照らす。


 息が荒くなる。喉が焼ける。


 胸がぎゅう、と締めつけられるように痛かった。




 ──そして、終わった。




 その瞬間、背筋を冷たい汗が這った。




「……なにやってんだ、俺」




 吐き気が込み上げた。頭を抱えて丸まった。


 どうして、姉さんが苦しめられてる映像で……


 どうして僕は、こんな……




 自己嫌悪。


 後悔。


 汚らわしさ。




 僕は、もう……人間じゃない。




 泣きたかった。でも、涙は出なかった。


 ただ、胸の奥に、何か黒いものが沈んでいく感覚だけが残った。




 この動画を撮ったやつ──あの医者。


 すべての始まり。


 姉さんの顔を壊し、心を壊し、僕の存在を否定させた。


 そして今、この僕を……怪物に変えた。




 誰かを心の底から憎んだのは、初めてだった。




 心の奥で、ひび割れた水槽の底から何かが目を覚ました気がした。


 泡の一つも立てずに。


 ただ、じっと静かに。




 ──それは、まだ名前のない怒りだった。




 僕の中で、何かが生まれかけていた。


 それは怒りであり、復讐であり、もっと名前のつけようがない──深くて、暗くて、底が見えない何かだった。




 誰かに話したら、きっとこう言われるだろう。


「思春期の不安定な精神状態」


 あるいは「家庭の問題」や「学校での孤立」なんて、ありふれた言葉でまとめられるのだ。




 でも、それは違う。




 僕は、自分で選んだ。


 もう人間として生きるのをやめようと。




 あの動画を見続けるたび、心が削れていった。


 顔を整えた姉さんの、あまりにも整った横顔。


 麻酔で意識を奪われたその姿。




 どうして。


 どうして、誰も怒らないんだ。


 どうして、あいつは平然と医者を続けているんだ。




 僕の怒りは、やがて形を持ち始めた。


 現実味を帯びて、じわじわと背骨に絡みついてくる。




 夜。




 風呂場の鏡に、自分の顔が映っていた。


 目の下のクマは濃く、肌は青白く、唇は乾いてひび割れていた。




 ──河童だ。




 誰かが言ってた。


 「水島、マジで河童に似てるよな」


 「頭の形とか笑えるし」




 あの声が、耳の奥でリピートされる。




 鏡を見ていたはずなのに、僕は鏡の中の“それ”から目を逸らしていた。




 “それ”が笑っていた。




 ──違う、こんなの僕じゃない。




 けれど、その瞬間に確信した。




 僕は、もう人間の顔をしていない。


 人間の心も持っていない。




 だったら、いっそ全部捨ててしまおう。


 人間らしい羞恥も、理性も、痛みも。




 そして、怪物になるのだ。


 水の底で息をひそめ、やがて水面へと這い上がる。


 あの医者の首を、


 黒板に落書きしたやつらの喉元を、


 笑いながら裂くために。




 手術を──受けよう。




 この顔をもっと歪ませてやる。


 あの河童みたいだと笑われた顔を、


 本物の河童にしてやる。




 皿も、甲羅も、ヒレも──全部。




 その夜、僕はひとり、枕元のスマホを手に、医師の名を検索し始めた。


 盗撮魔でありながら、未だに表沙汰になっていない、


 あの整形外科医の名前を──。




 その時、頭の中で泡が弾けた気がした。


 生ぬるく、黒い感情が脳を覆っていく。




 僕の中の“怪物の種子”が、ついに芽吹いた音だった。


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