第6話










 はじめは、葉山の読む本を覗き込んで話題を探した。


 彼女はびっくりするくらい無口で、話しかけても返ってくるのは5回に1回……それ以下かも。


 ただ、動かないのは口だけで首や目線の動きで答えようとはしてくれる。完全無視ではないだけ、ありがたいかな。


 あたしが他人をよく見て気づくタイプだから成り立ってるけど、他の人だと意思疎通図るの難しいだろうな、とか思ったりする。


 友達がいない理由が、嫌でも分かる。


「……葉山」


 何気なく名前を呼んでみただけで、呼吸を止める。


 じっとり湿る空気は、梅雨のせいだけじゃない。


 纏うブラウスの白が透けて、肌色がうっすらと浮かび上がったのを、視界の端に捉えて微笑ましく目を細めた。


 緊張が伝わるたび、「意地悪しちゃおっかな」なんて子供じみた発想が頭を過ぎる。


 例えば――


「あたしにも、読ませて?」


 適当な理由を口実に距離を縮めて、肩が触れるくらい近付いたらどうなるんだろ?とか。


 思いついたら行動しないと気が済まなくてやってみたら、葉山は本を握る手に力を込めて俯いたまま何度も忙しなく瞬きを始めた。


 人との触れ合い、慣れてないんだなぁ…って。


 垂れてきた汗がこめかみから頬へ伝って、顎に落ちるのを横目で観察しながら、たどたどしい動きに心臓を疼かせる。


 この感覚を分かりやすく表現するなら、生まれたばかりの子猫がよたよた歩きしているのをテンション爆上げで、だけど驚かせちゃうから声には出さないで、静かに見守るあの瞬間。まさにそれ。


 かわいい…!って叫びたいのを堪えて、撫で回したくなるのも我慢して、ただ見つめる。愛らしさが生むもどかしさはもはや暴力。


「汗で……汚しちゃうよ」


 本の紙を濡らしてしまう前に顎下をなぞり上げて指の腹で水滴を拭うと、葉山は驚いた仕草で体を反らせた。


 近づきすぎると逃げるのも、猫っぽい。


「ねぇ、葉山?」

「あ、ぅ……」

「あたしのこと、怖い?きらい?」


 猫と違うのは、言葉が通じることくらい。


 聞けば、葉山は必死で首を横に振ってくれた。全身で否定してくれたのが嬉しくて、口角がつり上がりそうになる。


 よかった、という安堵がもたらしたのは、さらなる愛くるしさで。


 この時のあたしは、どうかしてた。


 目の前にいる少女があまりに小動物みたいで、あまりにも可愛らしくて、脳内がそれだけで埋まって。


「もう…」


 ちゅーしたいくらい、かわいい。


 とか、思っちゃって。


「え…?」


 薄い唇に向かって首を伸ばしたあたしに、瞳孔が開ききった。


 予期せぬ自体を防げなかった無防備な口に触れて、汗の味ごと包み込む。


 受付からも死角になっている図書室の隅。誰もいない場所で、入り込んだ風がカーテンをふわりと浮かせて、そこから差す西日があたし達を照らした。


「あ……え、あ…」


 顔を離してみたら、夕焼けよりも赤く染まった頬と、言葉を失くした口元が情けなくパクパク動くのが見えた。


「な、な……な」


 言おうとしてることが、声に出さなくても伝わる。


 ――なんで、キスなんて。


 なぜなら、あたし自身も同じことを頭に浮かべているから。


 やらかした後で、「なんで」の三文字が脳みそを埋め尽くした。冷静に考えたら、いくらかわいいからって同級生に、それも女子相手にキスするとか意味分かんない。


 あたしが戸惑ってる間に、葉山は本をパタンと閉じ、机の上を片付け、鞄を肩にそそくさとその場から立ち去ってしまった。


 そりゃ、いきなり女からキスなんてされたら誰だって逃げる。あたしも逃げたい。この場から立ち去りたい。


 呆然として思考停止しているところへ、


「あ、あのー……もう、時間です」


 図書委員の男子が気まずそうに声をかけてきて、そこでようやく我に返った。


「ねぇ、み、見てた?」

「な……なにを?」

「あー……分かんないなら大丈夫」


 見られてなかったことだけが不幸中の幸いだと胸を撫で下ろして、図書室を出た。


 昇降口から外へ踏み出す前に雨が降り始めて、今日は自分への罰だと甘んじて傘も刺さず帰路につく。全身が濡れて冷たくなるたび、現実を突きつけられたみたいでしんどかった。


 なんとなく家に帰るのが嫌で、気が付けば足は祖母の家へと向かっていた。


「ただいまー…」

「……あらまぁ、せりちゃん。濡れちゃって」


 引き戸を開けると、居間からひょっこり顔を出した祖母が、あたしの姿を見るやいなや慌てた様子で駆け寄ってきてくれた。


 渡されたタオルは大好きな柔軟剤の匂いがして、嗅いでると荒れていた心音も落ち着いてくれる。


「何があったの。傘は?」

「忘れちゃった」

「あらまぁ。…とにかく、お風呂行っておいで。もうお湯が炊けてるからね」

「うん。ありがとう、ばぁば」

「いいんだよ。あったかいお味噌汁も用意しようね」


 腰はちょっとばかし曲がってるけど、元気に動き回る祖母の姿にも安心して、ずぶ濡れの体をお風呂場へ運んだ。


 体を軽く流して、たっぷり溜まった湯船に浸かって――


「はぁ〜……きもちいい!最高」


 もうこの時点で、すっかり開き直って元気を取り戻していたあたしは、愚かにも翌日も何食わぬ顔で葉山に接触を試みる。


 ……そして残念ながら、数日は避けられることになる。

 




 


 

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