第27話:呑まれゆく、迷宮の底へ

 迷宮の奥へと進むにつれ、空気はより重く、肌にまとわりつくようになった。

 滴る水音、石壁に反響する遠くの足音、かすかな風の揺れ。

 それらすべてが、僕の目には見えない景色を描く筆となる。


 何度か戦闘をこなし、ゴブリンの群れを切り払いながら、僕とアリシアは互いの気配を意識して歩を進めた。

 他の生徒たちの姿は、顔も色も分からない。

 すれ違った気配や声の端だけが、彼らの存在を知らせる。


 そのときだった。


 奥から、凍りつくような悲鳴が響いた。


 瞬間、アリシアと僕は互いを確認する。

 言葉は必要なかった。気配の輪郭が互いにくっきりと浮かぶ。頷くだけで、意思は通じた。


 悲鳴の方向に足を進める。

 そのたびに床に残る水滴の音、壁に反響する風の唸り、奥から漂う魔力の脈動――すべてが、迫る危険を告げていた。


 到着した先には、カイゼル君と二人の女の子が、複数のゴブリンと一体の強力な魔物に囲まれていた。

 魔物の呼吸、武器の振動、そして血の匂いが入り混じり、空気は濃密な緊張に包まれている。


 一人の女の子が床に倒れ、痛々しい呻きとともに動けない。

 三人は懸命に応戦していたが、明らかにじり貧だ。魔物の気配が濃く、迫る力は途切れず、次第に圧迫感となって二人を押し潰そうとしていた。


「援護に行きます! 見捨てるわけにはいきません!」


 彼女の言葉に、僕の口元に笑みが浮かび、刀を握る手に力が籠る。

 アリシアには、見捨てるという考え自体がないのだろう。


「援護に入ります!」

「了解!」


 短く交わした言葉。

 心の中で互いに確認し、次の瞬間には動き出していた。


 踏み込んだ瞬間、空気が一層ざわついた。

 魔物の息遣い、武器の振動、女の子の痛ましい呻きが交錯し、胸の奥が締め付けられる。


「逃げろ、ノクス! アリシアも!」


 カイゼルの声が叫ぶ。

 しかしアリシアは剣を握ったまま振り返り、瞳の奥に迷いはない。


「ここまで来て仲間を見捨てろと言うのですか? ノクス、行きます!」


 その声が胸を熱く貫く。迷いは消えた。

 僕はアリシアと共に、前に進む。


 短く呼吸を合わせ、静かに一歩を踏み出す。

 足先はわずかに滑るだけで、音は存在しなかった。

 師匠が編み出した歩法〈幽踏法〉――〈静穏〉の応用。心音すら潜める、物音なき進行。

 ゴブリンの群れが僕らに反応する。


 無駄を削ぎ落とし、軸をぶらさず、刃の起点にも防御の起点にもなる基本体術――〈静刃〉。


 ――静刃。

 剣を振るう前に己を鎮め、刃のように澄ませる術。

 動かぬことは鈍重ではない。

 揺るがぬ足元、乱れぬ呼吸、淀みなき心。

 それらすべてが、刃のように研ぎ澄まされ、静かに、しかし力強く世界を切り裂く。


 僕の刀が空気を割り、ゴブリンを次々と斬り伏せる。

 周囲の気配が微かに凍り、驚きの声が零れる。


「……すごい」


 アリシアも感嘆の声を漏らす。

 短く、しかし心からの賞賛が僕の胸に響く。


 一体、また一体とゴブリンは倒れ、残るは控えていたゴブリンジェネラルのみ。

 その気配は重く、動きは俊敏。

 だが、僕とアリシア以外、消耗して動ける様子ではない。


「ノクス……」


 僕は静かに頷き、刀を握り直す。

 ゴブリンジェネラルの気配は、他の魔物とは明らかに違う。

 しかし、その気配も上位種ならば当然のこと。

 その手には、大剣が握られているのが輪郭でわかる。


「あの大剣、振り回すには隙が出来るはずです」


 振り回す大剣の空気を裂く音は重く、振り下ろす武器の風圧すら肌を叩く。

 まるで生きた鉄塊がうなりを上げて迫るかのようだ。


「私が前に出ます。ノクスは……」

「大丈夫。わかってる」


 アリシアが一歩、鋭く踏み込み、盾のように剣を構えた。

 何度も振り下ろされるゴブリンジェネラルの猛攻。

 しかし彼女は寸分も怯まず、剣を滑らせるように受け流し、踏み込みを殺し、全てをいなしていく。


 火花のように散る気配の衝突。

 その中心で、彼女は揺るがず立っている。


 僕は一瞬、息を呑む。

 王女であるはずの彼女が、ここまで鍛え抜かれた剣を振るう。

 彼女の中にある信念が、それを可能とさせているのだろう。


 敵の意識は完全にアリシアに奪われていた。

 その瞬間を、僕は逃さない。


 呼吸を潜め、一歩、二歩。

 まるで音も気配もない水面を渡るように。


 ――〈幽影〉。

 存在を消し、空気に紛れる歩。

 僕の輪郭は闇に融け、敵の感覚から消えていることだろう。


 ゴブリンジェネラルの背後に移動した僕は、柄に指をかけ囁く。


「彼女にご熱心なのはいいけど、これは命を賭けた戦いだよ」


 ゴブリンジェネラルの動きが一瞬止まった。

 その耳に僕の声が届いた時には、もう遅い。


「――〈一ノ型・紫電〉!」


 雷鳴の前触れのように鞘鳴りが走る。

 刹那、稲妻そのものの速さで抜き放たれた剣閃がその命を断ち斬り、気配が断ち切られた。


 次の瞬間、重々しい首が地へと落ち、血飛沫が熱をもって空気を染める。

 僕は呼吸を整え、納刀する。


 終わった――そう思った、その時だった。

 本来消滅するはずの魔物の血が流れ出し、地面を濡らしじわりと広がっていく。

 その下で、今まで感じられなかった魔力がざわめいた。


「……っ、魔法陣?」


 床一面に浮かび上がる紋様。

 ゴブリンジェネラルの血が媒介となり、隠されていた術式が発動した。


「ノクス!」


 アリシアの叫びと同時に、地に描かれた魔法陣から奔流のような魔力が迸る。

 それはただただ純粋な奔流。

 目は見えなくとも、僕にははっきりと見えていた。


 大地の下から溢れ出す脈動。

 赤黒い血を媒介にして広がる紋様が、淡い光をまといながら生き物のように蠢く。

 線と線が絡み合い、渦を巻き、やがて僕とアリシアの立つ場所を中心に収束していく。


「転移トラップだ……!」


 カイゼル君の叫びが響く。

 転移トラップ。つまりは他の階層へと飛ばされるということ。


 押し寄せる魔力は皮膚を焼き、肺を圧迫する。

 体の芯を掴まれ、無理やり引き上げられるような感覚に、思わず歯を食いしばった。

 脱出しようにも、魔力に阻まれ動きが阻害される。


「ノクス!」

「大丈夫、アリシア!」


 手を離してはいけない――そう直感した。

 僕は彼女の手を強く握り返し、迫り来る光の奔流に抗う。

 しかし魔法陣は冷酷に発動を完了させ、全身が光に呑み込まれていく。


 ――視界が反転した。


 盲目の僕には色はない。

 だが、魔力の流れが世界を塗り替えていく。

 重なる円環、きらめく鎖のような紋様、星々の軌跡にも似た光の糸。


 それらが渦を巻き、僕とアリシアを絡め取り、空間の裂け目へと引きずり込んだ。

 体は浮遊し、上下の感覚さえ消える。

 風も、重力も、すべてが音を失い、ただ魔力の奔流だけが世界を支配する。

 その静寂の中で――遠く、声が響いた。


「ノクス! アリシア!」

「駄目だ、引きずり込まれる!」

「離せ! 今助けに――!」


 カイゼル君の叫びと、二人の女の子の声。

 悲鳴と怒号が、ゆらめく光の帳を隔てて届いてくる。

 だが、その声は急速に遠ざかり、やがて光と共に掻き消えた。

 僕とアリシアは、もう戻れない。

 魔力の渦に囚われたまま、どこか見知らぬ深淵へと、飲み込まれていった――。



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