第11話

▽▼▽


 休日の午前、家のキッチンに立つ。慣れない手つきで包丁を握るのは、正直に言えば修行に近かった。


 「痛っ……」


 開始からわずか五分、早くも指先に傷をつくる羽目になった。すぐに水で流し、絆創膏を貼る。問題ない、まだ折れてはいない。


 できることは、やりたい。そう思ってキッチンに立ったのだから、多少の傷など、足を止める理由にはならない。


 ——問題は、その“多少”が、想定より遥かに奥深かったということだ。


 何度も「これは違う」と鍋を変えた。ひとつは火加減を誤って鍋底を焦がし、もうひとつは具材が原形を留めないほど煮崩れて、取り返しがつかなくなった。そもそもレシピ通りにいかなかったのは、計量すら目分量だったせいかもしれない。

 結果として、洗われていない食器と調理器具が、山のように積み重なっていくばかりだった。


 業務で段取りを組むのは得意だ。仕事の計画や交渉、数字の調整なんかは、それなりにこなしてきたつもりだ。

 「常人を越えてる」と冗談まじりに評されたこともある。

 けれど、どうにも生活という領域では、自分の手際の悪さが際立ってしまうらしい。

 むしろ、こちらのほうが“生きる”ことの根幹なのではないかと、少しだけ情けなくなる。


 ようやく配膳を終えた夕食は、色味も形も、決して美しいとは言えなかった。

 皿数だけはやたら多く、なのにどれもまとまりに欠けている。味見した記憶のある料理と、初めて見るような料理が混ざり合って並んでいるのだから、むしろ自分でも少し不安になる。


 「ひかり、ご飯できたよ」


 声をかけると、寝ぐせをつけたままのひかりが、静かに寝室の布団から姿を現した。


 俺が本当の悠希だと、ひかりに現実を突きつけてしまったあの日から、彼女はすっかり気力を失っていた。

 それでも、ひかりはこの家に残ることを選んでくれた。

 彼女がここにいてくれるのならば、俺は、この場所でできることをやりたいと思った。

 寄り添うことができなかった、あの瞬間の——せめてもの罪滅ぼしのように。

 壊してしまった幸福の、その隣に、せめて座っていたい。


 二人で食卓を囲むのは、いつ以来だっただろう。

 席についたひかりは、ぼんやりとテーブルの上を眺めていた。

 俺は、少し間を置いてから、そっと手を合わせる。


 「いただきます」


 ひかりも、小さく手を合わせてくれた。


 彼女はスプーンでスープをすくい、そっと口へ運ぶ。


 「しょっぱいよお……」


 「え、本当に?」


 俺もひと口。

 口に含んだ瞬間、塩気の奔流に舌が痺れるようで、思わず顔をしかめた。


 「……飲めたものじゃないな、これ……」


 汁物は、これまで一度として成功した記憶がない。昨日作ったスープに至っては、まるで風味を置き去りにされた甘い水のようで、それでも今日のものよりはまだ喉を通った気がする。

 今回も、コンソメを入れたあとに、念のためと醤油と塩を加えてしまった。

 体にしみるような味に仕上がった気はしている——が、たぶんそれは塩分の話だ。明らかに体に悪い。


 次に手をつけたのは、ピーマンのおかず。

 いつか、ひかりが作ってくれた料理を思い返しながら、レシピサイトを片手に試行錯誤した。


 たしか、あのときもピーマンを多く使った夕飯だったはずだ。いや、正確には——ピーマンしかなかった。

 ひかりはやけに不機嫌で、皿を睨みつけるようにしていた。そのわりに、調理や配膳は妙にスムーズで、最初から“そうするつもり”だったとしか思えなかった。

 俺がピーマンが苦手だということは、彼女も知っていたはずだ。

 それでもあえて、露骨なくらいピーマンづくしのメニューを出してきた。


 何かに怒っていたのは明白だった。  でも、あの時の俺はその理由を聞くことができなかった。  いや、むしろ聞かないほうがいい——そんな気がして、無言で飲み込んでしまったのだと思う。


 思えば、怒っていたあの頃の彼女の姿すらも、今では遠い記憶の中にある。


 自分で作ったピーマンのおかずを、恐る恐るひと口。


 「苦っ……」


 思わず、声が漏れた。こんなはずではなかった。

 ひかりが作ってくれたときは、もっと食べやすくて優しい味だった。

 ……俺が作ると、なぜかこうなってしまう。

 ピーマンの素材の味そのものが、どうにも体に合わないのだろう。


 そんな俺の様子を、ひかりが目を丸くして見つめていた。

 その表情には、呆気にとられたような、どこか幼い戸惑いがにじんでいた。

 そして、小さく「……え?」と、驚きと困惑が混ざった声が漏れた。


 ——そして、ふいに。


 「ふふっ」


 小さく、ほんの微かに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、心の深いところで、そっと何かが揺れた。


 空っぽになってしまったと思っていたひかりの中に、ほんのわずかに、けれど確かに——小さな灯が灯った気がした。


 それはかつて、彼女が過去を照らしていた眩い灯とは、きっと別のものだ。  その灯はもう、戻らない日々と共にそっと消えてしまったのだろう。


 けれど、今の彼女が見つめた先に宿ったのは、新しい灯だ。

 過去ではなく、未来へと向かう——そんな微かな希望の光。


 俺は、ひかりがその一瞬に見せた笑顔を、深く記憶に刻んだ。


【第2章 LIGHT ~END~】

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