【序章】ミレイナ・ヴェルトハイム
第2話 旅立ち
私の運命は残酷で両親や兄妹の全てを奪い去った。
ミレイナ・アズベルそれが私の名前だった。
生まれたのは、王国に制服されかけていた帝国領の王国領に面したアズベル領だ。
私が成人するまでは、まだ平和だった。
王国と帝国は度々火花を散らしていたものの
大々的に戦争はしていなかったのだ。
戦争が起きてしまえば、王国によって一方的に蹂躙されるだろう。
それでも王国が大々的に攻めないのは帝国が進める「魔女」研究があるからだろう。
――帝国歴四二五年、春。
風は東より吹き抜け凍った土を撫でていた。
遠く、王都の鐘が八つ鳴る。まるでそれが、戦の号砲だったかのように。
その日、王国は帝国に対して正式に宣戦を布告した。
帝国が長年、緩やかに王国の交易路と領土を侵食してきた報復として。
だが、民の多くが望んだのは“開戦”ではなく“安寧”だった。
アズベル伯爵家――帝国北境に位置し、森と鉱山を統べる古き一族。
けれどその誇り高き家も、戦火のただ中に放り込まれた。
伯爵はすぐさま徴兵に応じ、先陣として帝国北部…第一線であったあの平原へ向かった。
そして、帰ってこなかった。
父・ザカルド・アズベルは“戦死”の報に名を刻まれた。兵士の遺骨が戻ることはなかった。灰にさえなれなかった父は、
ただ「戦死者」という記録を残して消えた。
その日から、アズベルの屋敷は静寂の谷へと堕ちた。
「ザカルド…ザカルド、今夜は…赤い葡萄酒がいいかしら。
ミレイナがね、やっと刺繍を……ふふふ……」
母――エレーナ・アズベルは、夫の死を受け入れられなかった。
白磁の肌はやつれ、瞳の焦点は虚空を彷徨い、まるで壊れたオルゴールのように、過去を繰り返し口ずさむ。
部屋の隅に置かれた古い人形を、ミレイナやミルザと呼び、食事も取らず、夜毎に笑うようになった。
屋敷の召使いはほとんどが逃げ出し、残されたのは、わずか数日分の保存食と、執事が遺していった火打ち石。
馬車は略奪を恐れて潰され、貯蔵庫は空だった。
ミレイナ・アズベルは、まだ十六歳だった。
それでも彼女は、母の狂気に目を伏せず、弟と妹を抱きしめていた。
「ミリア、毛布をもう一枚被って。夜は冷えるから」
「……うん……」
ミリアは八歳。とても静かな子だった。最近はほとんど言葉を発さない。
まるで、この世界の“音”が怖いのかのように。
ミルザは十三歳。父の剣を納めた壁を、ぼんやりと見つめていた。
「姉さん、父様は……死んじゃったの?」
「……死んだわ」
はっきりと言った。その声には、震えも涙もなかった。
ミレイナは、泣く時間すら奪われていた。
「じゃあ、俺たちは、これからどうなるの?」
「どこかに逃げるのよ…生きるために。」
その言葉に、部屋の空気が固まった。
ミルザは息を飲み、ミリアは毛布をきゅっと握った。
「母様は……?」
「置いていくわ」
ひとつの決意を語るように、静かにそう言った。
エレーナはもう“母”ではなかった。
狂気の淵に沈んだあの人は、今や“過去”だった。
ミレイナは立ち上がった。
壁に飾られていた銀の細剣を手に取る。
鍔にはアズベル家の紋章。双頭の鷹が空を睨む。だがその誇りは、今や命を奪う刃となる。
「山を越えた先に、海沿いの都市がある。ミレトス。そこまで行ければ……」
言葉は途中で途切れた。
本当に“そこ”に救いがあるかは、わからない。
けれど、ここに残れば、いずれは王国軍か略奪者か、あるいは飢えに殺される。
「今夜は荷をまとめて。魔法鞄は、納戸の奥にあるわ。食料と薬をできるだけ詰めておいて」
「わかった……」ミルザが立ち上がる。
「……ひとりじゃないからね」そうミリアがぽつりとつぶやいた。
そう――彼らは三人だった。
まだ生きている。まだ、歩ける。
その夜、ミレイナは母の部屋の扉の前に、パンと水を置いた。
そして、そっと囁いた。
「さようなら、母様。ごめんなさい。でも……生きたいの」
泣き声はなかった。
あるのは、灰色の夜の静けさと、冷え切った空気の中、わずかに揺れた燭台の灯だけ。
それは、アズベル伯爵家の最期の夜だった。
屋敷の灯火がひとつ、またひとつと消えてゆく。
まるで歴史そのものが、闇の中へ静かに埋もれていくように。
夜明けは静かだった。
燃え残る薪の灰が、冷えた空気にかすかに舞う。
アズベル屋敷の廃れた石床が、白く光っていた。
ミレイナは、ゆっくりと息を吐いた。
凍るようなその吐息の向こうに、
今日という「逃避」の始まりがあった。
「……出発の時間よ」
それは、世界に告げるほどの声ではなく、
ただ胸の内で、決壊しそうな何かを抑えつけるための、小さな宣言だった。
床に並べられた魔女の遺産…魔法鞄は、長年使われぬまま納戸にしまわれていた古びた代物だった。
けれど、中は広く、保存食や布、薬草、銀貨、火打ち石、子供たちの着替えを詰めてもまだ余裕があった。
父がかつて「いざというときのために」と言っていた、唯一の宝。
ミレイナは鞄の口を閉じると、肩にかけ、屋敷の扉の前に立った。
振り返れば、歪んだ柱、剥げた天井、誰もいない食卓。
そこに「家」はもうなかった。
ミリアが、そっとミレイナの袖を引いた。
「……もう、帰ってこられないの?」
か細い声だった。
それは“幼さ”というより“理解”に裏打ちされた質問だった。
「そうね」
ミレイナは、はっきりと答えた。
「でも……それでいいの。
前を向かなきゃ、誰も守れないもの」
ミリアは、こくりと頷いた。
その小さな頷きに、胸が痛んだ。
何もかもを背負わせてしまっている。その事実が、ミレイナの心を締めつけた。
ミルザは、剣を背負っていた。
父の遺した剣ではなく、納戸に眠っていた古びた護身用の片刃刀。
子どもの腕では振るうのもやっとだが、彼は誇らしげに背負っていた。
「姉さん、俺が先に立つよ。何かあったら、俺が守るから」
その言葉に、思わず笑いそうになった。
――だけど、笑わなかった。
「お願いね。頼りにしてるわ、ミルザ」
ミレイナは、扉を開けた。
まだ朝の陽は昇らず、空は薄明の色を纏っていた。
森のざわめきと、冷たい風だけが出迎えてくれた。
屋敷を一歩、また一歩と離れていく。
門をくぐるとき、ミレイナは一度だけ振り返った。
あの屋敷が、亡骸のようにそこに横たわっていた。
――さようなら、アズベル。
名も、地位も、過去も捨てていく。
でも、命だけは、守る。私のこの腕で。
***
領地を抜ける道は、ひどく荒廃していた。
戦が始まってから、誰も整備をしていないのだろう。噂では帝国の農民が貴族狩りを始めてるとか…
折れた柵、割れた石畳、剥き出しの地面。
風に乗って焦げたような臭いがした。誰かの家が焼かれたのかもしれない。
ミリアが時折、靴音を気にして立ち止まる。
「音を立てたら、誰かに見つかるかもしれない」と、口に出さずとも恐怖を感じているのだろう。
ミルザは剣に手を添え、ミレイナより前を歩いている。
背筋を張って、どこか大人びた顔で。
「もうすぐ、山道に入る。そこを越えたら……きっと安全な場所があるわ」
誰に言うでもなく、誰かに言い聞かせるようにミレイナはつぶやいた。
自分自身が信じないと、弟妹たちは崩れてしまう。
ミレイナは“希望”を語ることで自分を立たせていた。
***
昼を過ぎ、山のふもとに近づいたころ。
泉の傍の岩肌の影に身を隠しながら、ミレイナはひと息ついた。
そして、見た。
――弟と妹の顔を。
ミルザは額に汗をにじませながら、それでも誇らしげな表情をしていた。
ミリアは、唇を噛んでいたが、泣いていなかった。
ふたりとも、必死に歩いている。誰にも頼らず、自分の足で。
「……強いわ、あなたたち…本当に」
その声が震えたのは、疲れのせいじゃなかった。
ミレイナの目から、一筋、涙がこぼれた。
気づかれぬように、そっと袖で拭う。
――ありがとう。生きていてくれて。
――守らせてくれて、ありがとう。
ミレイナは、深く息を吸った。
山は高く、そして険しい。
けれど、彼女の背には“理由”があった。
命を繋ぐという、たったひとつの揺るぎない使命が。
「行こう。……私たちの道は、まだ始まったばかりだから」
そして三人は、木々の影に身を潜め、山の入り口へと踏み出した。
誰にも見つからずに。誰にも壊されずに。
まだ見ぬ“光”を求めて――
霧が濃かった。 朝の光すら、枝葉の間で濁り、世界を墨で塗ったように曇らせていた。
「……止まって」 ミレイナは、囁くような声で二人を制止した。
――何かがいる。
風も止み、鳥も鳴かない。空気の密度が異様だった。 足元の落ち葉の上、巨大な蹄跡が二対――。
「剣……の跡?」
否。それは“刃を持つ何か”が通った証だった。 まさか、と思った。けれど、“まさか”はこの地ではいつだって現実だった。
そのとき――地鳴り。枝がはじけ飛ぶ音。 突如、木陰から“それ”は現れた。
一体のオーク。 その身は人の倍近い巨躯。皮膚は黒灰色で、筋肉は岩のように隆起していた。
オークは丸太のような棍棒を握っていた。
それは、息を荒くしてミリアを見て「ブヒっ‼」といやらしい笑みを浮かべる。
「ひ……っ、いやっ、来ないで……!!」
ミリアが叫び、膝をついた。
「下がって、ミリア!」
ミレイナは即座に前へ躍り出る。鞄から閃光の小瓶を投げ放つと、オークの視界を一瞬、奪った。
だが、それはほんの僅かな時間―― 棍棒のオークが咆哮と共に突進する!
「ミルザ、援護して!!」
ミルザは震えていた。剣を構えたまま、動けずにいた。その姿は、まだ“子ども”だった。
だが――
ミリアの叫びが、彼の胸を撃ち抜いた。
「ミルザぁああ!! いやああ!!」
そのとき、ミルザの目の色が変わった。 恐怖の檻が崩れ“守りたい”という衝動が、彼を戦士へと変えた。
「うおおおおっ!!」
小さな体が跳ねた。剣が唸り、オークの膝を裂く。
ガギィッッ――!!
その瞬間、巨体が揺らぎ、膝をついた。
ミレイナは好機を逃さない。 彼女の目は斜面の岩に移る。
「ミルザ、斜面を滑って! 左側!」
ミルザが反応する。岩を蹴り、体勢を低くして滑り込む。
同時に、ミレイナは小型の手鏡を太陽光にかざし、反射光を棍棒のオークの目へ向ける。
まばゆい光がオークの視界を焼く。その隙に、ミルザが横合いから腕を斬り裂いた!
「うあああっ!!」
怒号と共に、オークはよろめいた。
ミレイナは背後から一気に駆け出し、岩の上から跳び上がる。
アズベル家の双頭の鷹が空を睨み、
オークの首の根元に渾身の力で突き刺し仕留める!
「――っ!!」
オークが呻き声をあげて崩れ落ちた。
――――静寂――
あれほど濃かった霧が、ゆっくりと晴れていくようだった。
「ミルザ……」
「……姉さん……おれ、やった……よね?」
剣は手から滑り落ちた。ミルザの両手は震えていた。 それでも、目は誇りに燃えていた。
ミレイナは彼を抱きしめた。 「ありがとう。あなたがいたから、勝てたわ」
「……でも、こわかった…こわいよ、姉さん……」
その言葉に、ミレイナもついに崩れた。
「……うん。私も怖かった。ずっと…怖かったよ」
後ろで、ミリアが泣いていた。 誰もが震えていた。けれど、それでも、生き延びた。
――生きて、安寧を掴む為に。
***
陽が昇りきった頃――三人は、ついに山を越えた。
眼下に広がるのは、白い屋根が連なる港町。
波間に揺れる帆船の影、潮の香り、陽光に煌めく海の水面が眩しいほどに輝いていた。
「……あれが、ミレトス?」
ミリアがぽつりと呟く。
「そう。港町、ミレトス。きっと……ここなら、もう、誰にも追われない」
ミレイナの声は、祈るように静かだった。
ミリアが手を握った。ミルザは剣を背にしたまま、じっと空を仰いでいた。
そしてミレイナは、小さく、でも確かに呟いた。
「生きたね、私たち」
それは誰の耳にも届かない、祈りのような言葉だった。
けれど確かに、その言葉が、この旅の“序章”を終わらせた。
―そして、すべては、ここから始まるのだ。
***
「うっわ―――。これがミレトスかぁ、でっかいなー!」
ミルザが、目を輝かせて口を開けたまま町を見渡す。
「見てっ! あそこ、大きな騎士様がいる!」
ミリアが背伸びしながら指をさす。陽光に映える銀の鎧をまとった騎士が、港沿いをゆったりと巡回していた。
「……コラっ。あんまり騒ぐとバレちゃうから……」
ミレイナは、そっと頭に被ったフードを深くかぶり直した。
その下には、父と瓜二つの黒髪がある。
それは、帝国人であるという証。
つまり―この地で忌み嫌われる存在の象徴。
……兄弟の中で、私だけが異質なのだ。
ここミレトスは、商業と自由を掲げる中立都市。移民も多く、監視は緩い。
だからこそ、彼女はこの街を“終着点”に選んだ。けれど、彼女の心はまだ張り詰めたままだった。
私がどう思われようと、どう扱われようと、それは構わない。
ただ、ミルザとミリアだけは
――この世界で、幸せであってほしい。
「ぐぅー……」
不意に、お腹が鳴る音が聞こえた。ミルザかミリアかは、分からない。
「ふふ……じゃあ、ご飯でも買おっか。なんでもいいよ?」
ミレイナが笑みを浮かべると、ミルザがぱっと目を輝かせた。
「やったぁー!よーし、何にしようかー!」
ミリアもすぐに手を叩いてはしゃいだ。
「……やっと、ミレイナ姉さま、笑ったね」
ミリアのその言葉に、ミレイナの足がふと止まる。
――笑っていた。
久しぶりに、心から。心の奥から。
けれど、それは弱さではない。
守るために、また歩いていくために、彼女は笑ったのだ。
市街の石畳を三人の靴音が響く。どこか懐かしく、どこか切ない音。
通りの角を曲がると、屋台から漂うスパイスの匂いが鼻をくすぐった。
香ばしい焼き魚の煙、甘い果実の山。子どもたちの歓声が交差する市場の中心で、ミレイナはふと立ち止まり、ある屋敷のほうを見つめた。
その屋敷の門には、朽ちかけた紋章と、静かな庭。
そして、彼女の記憶の中にあった名
ーー《クローヴェル》の名札が掲げられていた。
「……まさか……」
まるで導かれるように、彼女は一歩、門の前へと踏み出した。
その門は、時の重みをそのまま閉じ込めたように、静かにそびえていた。
苔むした石壁。剥がれかけた紋章。
それでも、確かにそこには“貴族”としての誇りが残っていた。
「クローヴェル……やっぱり、そうだ」
ミレイナは、唇をかすかに震わせながら門の前に立った。
父の言葉の中に幾度か現れた名だった。旧家臣のひとり――正義を曲げぬ頑固者、として記憶している。
「誰かいらっしゃいますか……?」
彼女が門扉の格子越しに声を掛けると、屋敷の奥から、ゆっくりと歩み寄る足音があった。
現れたのは、年配の門番だった。陽に焼けた肌と、深く刻まれた皺。だがその目には、誠実な光があった。
「ご用ですかな、お嬢さん」
「……この館、クローヴェル子爵のものですか?」
「左様でございます。……もしや、お嬢さん、その髪色は……」
門番の言葉が途切れた。
ミレイナは慌てて頭巾をかぶり直す。
「ごめんなさい。間違えました。ただ……少し気になって」
門番はしばらくミレイナの顔を見つめた後、静かに言った。
「……まさか、ザカルド様の……」
その名を聞いた瞬間、ミレイナの背に冷たいものが走った。
けれど、同時に、背後からくいくいと服を引っ張られる。
「おなかすいたぁ……」
「姉さん……さっき“なんでもいい”って言ったでしょ」
振り返ると、ミリアとミルザが、ぐぅ、とまた音を鳴らしていた。
緊張の糸が、くすりと緩む。
「……ふふ、そうだったね。じゃあ、今日は贅沢しちゃおっか」
ミレイナは一度、門番に軽く頭を下げ、門から離れた。
市場に戻り、屋台で香ばしく焼けた串焼きを三本。
少し高かったが、それだけの価値があった。
近くの噴水の縁に三人で腰かけ、串焼きを頬張る。
「ん~!おいしいー!」
「ここの肉、ちゃんと味ついてるわ……」
「ね?俺の選んだ屋台にして正解だったでしょ」
噴水の水が陽光にきらきらと反射し、まるで三人を祝福するかのように輝いていた。
そのときだった。
「……君。その黒髪は……」
低く、だが温かみを含んだ声が背後から響いた。
ミレイナが振り返ると、そこに立っていたのは――品のある白髪の老紳士。胸元にはかすかに見覚えのある紋章入りのブローチ。
だが、なによりも印象に残ったのは、その眼差しだった。
深く、静かで、哀しみを知る眼――。
「……クローヴェル、子爵……?」
ミレイナが名を呟くと、老紳士はゆっくりと頷いた。
「君は……まさか……ザカルド・アズベルの……?」
その瞬間、ミレイナの目に光が揺れた。
過去が、声になって呼んでいた。
忘れてなどいなかった。忘れてはいけなかった。
風が吹いた。
ミレイナの黒髪が揺れ、三人の時間が、また動き出す――。
***
まさかこんな時に再開するだなんて思ってもいなかった。
かつて父の副官としてアズベル領の南方にあった都市を治めていたバルダザール・クローヴェル子爵だ。
王国の宣戦布告と同時に、父に「この戦だけはしてはなりません」と帝国を捨て、王国に亡命した人物。
「……いやはや。こんな場所で再開をさせるだなんて、なんたる皮肉……
ところで、なぜキミたちはここに?」
ミレイナは、子爵の問いにすぐには答えられなかった。
喉の奥にひっかかった何かが、ことばを拒んでいた。
逃げるべきか。縋るべきか。
でも、ふと横を見れば――ミルザが静かに剣に手を添え、ミリアが怯えたように、彼女の背を見ていた。
彼らはまだ、守られるべき子どもだ。
だからこそ、ミレイナは一歩を踏み出した。
「……亡命です。父は…帝国に残り戦死しました」
クローヴェル子爵の瞳に、一瞬、深い憐憫の色が浮かぶ。
「ザカルド様が……まさか」
その名が、まるで亡霊のようにこの陽だまりの空気を凍らせた。
けれどミレイナは、まっすぐ子爵を見つめ返した。
「……お願いです。今日だけでも構いません。休ませてください。雨露を凌げる場所と……子どもたちのための、温かい食事を……」
子爵は黙ってミレイナを見つめた。
静かで、誠実な眼差し。だがそこには確かな葛藤もあった。
やがて彼は、ゆっくりと頷いた。
「……馬車を呼ぼう。私の屋敷へおいで。君たち は、今夜から“客人”だよ」
そう言って子爵が手を上げると、噴水の陰から控えていた従者が小走りに現れた。
ミレイナは思わずミルザとミリアを振り返る。
ミルザは、彼女の手をしっかりと握った。
ミリアは、ほっとしたように微笑んでいた。
――ほんのひとときでもいい。
安らぎの時間があるのなら、それはきっと“罪”じゃない。
ミレイナは小さく息を吐き、子爵のあとに続いた。
***
バルダザール・クローヴェルの邸は、港町ミレトスの南側に位置する高台にあった。
街の喧騒から少し離れたそこには、かつての帝国風の重厚な意匠と、王国様式の温かさが奇妙な調和を見せていた。
だが何より印象的だったのは――
邸の一隅に設けられた、小さな図書室だった。
***
ミレイナはその部屋に一歩入った瞬間、息をのんだ。
薬草学。医学。調合。治療。
帝国と王国、両国の知が並列され、
ある種の“中立の殿堂”として機能していた。
「……これは……」
「君の父が残した知識も、ここにある。私は、あの人の思想を忘れたことはないよ」
子爵は静かに告げた。
ミレイナは、一冊の古びた書をそっと開いた。
帝国文字で書かれた薬草図鑑――父の手書きの追記も見える。
“この根は苦味を持つが、煎じることで傷の炎症を抑える”
“子どもには分量を半分にせよ”
その筆跡に、彼の声が蘇る。
「……父様は、戦だけじゃなく、薬学も勉強していたのね……」
子爵は、微笑んだ。
「その志を、君が継ぐこともできる。もし君が望むなら……この知を、君に託そう」
その言葉は、ミレイナの胸を震わせた。
父の志――戦だけではなく、人を救うための学び。
帝国の貴族であったザカルド・アズベルが、なぜ薬学を学んでいたのか。
それは、「奪う」ためではなく、「守る」ためだったのだ。
「……父様は、未来を信じていたんですね」
ミレイナは本を抱きしめた。
その中に詰まっていたのは、知識ではな く、想いだった。
クローヴェル子爵は静かに頷いた。
「君の旅は、まだ終わらない。けれど、ここから始められる。君自身の“道”を。帝国でも王国でもない、君だけの未来を」
ミレイナは目を閉じ、深く息を吸った。
――私にはまだ、やれることがある。
――失ったものは大きいけれど、
守りたいものが、もっとある。
そして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ありがとうございます、子爵さま。……でも、私は“客人”ではいられません。
この街で、できることを探したい。生きるために。
そして、子どもたちに……未来を見せるために」
クローヴェル子爵の目に、一瞬、涙の光が宿った。
「……ザカルド様なら、きっと……その言葉を誇りに思うでしょう」
静かに、陽が窓から差し込んだ。
その光は、図書室の机を照らし、開かれた書物に柔らかな影を落とす。
ミレイナの心に、じんとあたたかいものが灯る。
それは、これまでにない感覚だった。
剣ではなく、魔法でもない。
知識という“武器”を、彼女は初めて手に取ったのだ。
それは、未来を切り拓く刃。
復讐でもなく、逃亡でもなく――
“生きるための力”だった。
***
夜が静かに降りた。
柔らかな寝台に包まれて、ミルザとミリアはすぐに眠りについた。
ミレイナは窓辺に座り、夜風に黒髪を揺らしていた。
見上げた星空の向こうには、まだ見ぬ未来があった。
けれどもう、怯えてはいない。
ここから始まる。知を手にした、新しい生の旅が。
――そして、それは戦火の中でも消えない、確かな灯火になるだろう。
だが、そんな安寧などミレイナ・アズベルにはふさわしくなかった。
***
あの日、庭には一輪の白薔薇が咲いていた。
春の始まりを告げる風が、クローヴェル邸の高窓を優しく叩いていたのに――
その朝、子爵は二度と目を覚まさなかった。
「……急死、とのことです」
そう告げた医師の声は淡々としていた。
病ではなく、老いとも言えない。けれど争うような痕もなく、ただ――
静かに幕が下りた人生だった。
ミレイナは、広間の柱の陰で、泣くことすらできなかった。
ミリアは黙って彼女の手を握っていたが、ミルザはただ黙って天を睨んでいた。
子爵に保護されてから三年。
薬学に没頭した日々、子爵の庇護の下で過ごした安寧な時。
知の灯に導かれ、ようやく心に平穏を手にしかけたあの場所は――主を失い、静かに崩れていった。
「正式に後継人として迎え入れられたい」――そんな王国の使者の申し出があった。
子爵には実子がいなかった。
けれど、彼は正式な遺言を残していた。
「この屋敷は、かつてのアズベル家の子へ。特に、ミルザに将来を託す」と。
その言葉が、公文書として読まれた日のことを、ミレイナは忘れない。
***
《クローヴェル子爵》の称号は、十六歳になったミルザに授けられた。
だが、それは虚ろな勲章だった。
「今日も、会議に出ろとさ」
「商業税? 知らないよ……あの人たちが決めたことだから……」
ミルザは、政治に関心を持っていた。
知ろうとした。理解しようとした。
でも――誰も彼に真実を教えようとはしなかった。
気づけば、書類に名前を書くのが“仕事”となり、
貴族たちの“許可印”となるだけの、
*操り人形*に変えられていた。
「ミルザ、あなた……それでいいの?」
そう尋ねた夜、彼は笑ってみせた。
でもその目に、ミレイナは少し前まであった輝きを見出せなかった。
「僕が動けばミレイナ姉さまが困るでしょ?
街の大人たちは皆、姉さまを悪く言うし、
……僕は、もういいから」
そう言ったその声が、今も耳の奥で残響している。
あの日、決死の覚悟で剣を握った勇敢な少年が、いまや、印鑑を押すだけの“存在”として扱われているなんて。
***
ミリアは【子爵みたいないい貴族様になる】という夢を語るようになった。
穏やかに笑うその横で、ミルザは静かに、自分を燃やし続けていた。
自らを蝕む火種を、誰にも見せずに。
ミレイナは、薬草の知識を深めながらも、
心のどこかで、確かに沸き上がる感情を抑えきれなくなっていた。
“私の、この黒髪は帝国でしか生きられない”
“どんなに学ぼうが王国の地では嫌厭される。それなら、いっその事、国を出るべきなのだろうか”
クローヴェル邸の書斎で、ミレイナはふと見つけた古い地図帳を広げた。
王国に蹂躙された帝国の帝都。
400年前の賢者が築いたとされる帝国の要所。
「……まだ、帝国の【誇り】は残っているはず」
ミレイナの目が静かに燃えた。
それは、もう少女ではなかった。
ただ守る者ではなく“知を手に運命に抗う者”のまなざしだった。
***
夜、書斎の窓から港の灯を見つめながら、彼女はそっとつぶやいた。
「子爵……あなたの遺志は、私が継ぎます。
貴方は、あの日、
逃げたのでは無く生きたのです……。」
クローヴェル子爵の肖像画の前で、ミレイナは一礼した。
ミルザの静かな決意を背に、
ミリアの未来を手に、
そして自らの使命を胸に――。
――父や子爵が抱いた帝国の尊厳を守る
風が強く吹いた。
再び、物語が進み出す。
次の舞台へ。戦火の中心へ。
誰も望まぬ“英雄譚”の、序章へと――。
――ただ、彼女が生きる為に。
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