第24話 ゲリラ豪雨とアマヤドリの対価
「終わった……」
よりによって、大事な商談の15分前に豪雨に見舞われるとは。
ビルの軒下で雨宿りをしながら、彼はガラスに映る自分の情けない顔を睨めつけた。
イタリア製の高級生地で仕立てた、今日のプレゼンのための勝負スーツ。
それが濡れるのだけは、絶対に避けたかった。
空は、まるで巨大なバケツをひっくり返したような狂騒状態だった。
黒い雲が低く垂れこめ、アスファルトを叩きつける雨粒が白い飛沫となって跳ね返る。
ゲリラ豪雨。
その名に恥じず、予測不可能な不意打ちを食らわせる雨。
このままでは商談に遅刻し、ずぶ濡れの無様な姿をクライアントに晒すことになるだろう。
そうなれば、この数ヶ月の努力が水の泡だ。
文字通り、水の泡。
祈るような気持ちで、
数分で雨が止むという明るいニュースを探したが、そんなものは見つからなかった。
現代の異常気象を前に、天気予報は役に立たないらしい。
ニュースサイトには、「またしてもAIがノーベル賞級の新発見!」という見出しが躍っていた。
最近では、AIの知能が人類を超えそうだというニュースを頻繁に目にする。
だったらゲリラ豪雨を止める方法くらい、発明してくれてもいいのに――。
八つ当たりめいた舌打ちを健司は漏らす。
八方塞がりだった。
タクシーは1台もつかまらず、配車アプリは「現在、利用可能な車両がありません」という無慈悲なメッセージを返すのみ。
コンビニで傘を買おうにも、店の入口からはみ出すほどの行列ができていた。
同じ考えの人間が殺到しているのだろう。
「どうすりゃいいんだよ……」
その時だった。
軒下の奥、非常階段の薄暗がりに設置された小さなデジタルサイネージが、ふっと静かに点灯した。
『濡れたくないあなたへ。超高精度エリア防災AI【アマヤドリ】が、目的地まで無料でご案内します』
怪しげな宣伝文句の下に、QRコードが青白く光っている。
普段なら鼻で笑って無視するところだが、今の健司に選択肢はなかった。
藁にもすがる思いでカメラを起動し、震える指でQRコードを読み取る。
すぐにアプリのインストール画面に遷移した。
評価は驚くべきことに、星4.9。
レビューには「マジで濡れない」「神アプリ」「原理は謎だがすごい」といった絶賛のコメントが並んでいる。
健司は迷わずインストールし、アプリを起動した。
シンプルな地図が表示され、現在地と目的地を入力するよう促される。
商談先のビル名を打ち込むと、AIの無機質な合成音声がスピーカーから響いた。
『ルートを算出しました。これより、音声ガイドを開始します。指示に正確に従ってください。最初の指示です。30秒後、軒下から出て、前方の横断歩道を渡り、対面のドラッグストアの
「はあ? 無理だろ、この土砂降りの中を……」
健見が疑いの声を上げた瞬間、まるで彼の言葉に反論するかのように、雨足がほんのわずかに弱まった気がした。
いや、気のせいではない。
今まで前も見えなかった雨のカーテンが、少しだけ薄くなっている。
『実行してください』
「……マジで言ってんの?」
『実行してください。残り、10秒』
「ああっ、クソッ!」
健司は意を決して走り出した。
もちろん、スーツが濡れる不快感を覚悟して。
ところが不思議なことに、体に当たる雨粒は数えるほどしかなかった。
まるで、自分の頭上だけ雨雲に穴が空いたかのようだ。
全力で走り、ドラッグストアの
所要時間、7秒。
スーツは、ほとんど濡れていなかった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
これは本物だ。
健司は、まるで選ばれた人間になったかのような高揚感を覚えた。
雨に降られて立ち往生している人々を横目に、自分だけが天候を支配しているかのような全能感。
AIは次々と、神がかり的なタイミングで指示を出す。
『その場に留まってください。3、2、1……今です。右に曲がり、郵便ポストの横を通過。16秒で次の角のビルまで移動してください』
指示通りに動くと、強風で飛ばされてきた他人の傘が自分の数センチ横を掠めて飛んでいったり、自分が通り過ぎた直後にビルの屋上から貯水タンクの水が溢れて滝のように降り注いだりした。
まるで、緻密に計算された災害回避シミュレーションゲームの主人公になった気分だった。
おかげで健司は、商談開始の3分前に目的地のビルに到着できた。
スーツはほとんど濡れておらず、ハンカチで水滴を軽くはたく程度で済んだ。
プレゼンは完璧。
クライアントからの評判も上々。
数億円規模の契約が、ほぼ手中に収まった。
◆
すっかり気を良くした健司は、帰り道も「アマヤドリ」を使うことにした。
相変わらず外は豪雨だったが、もはや彼にとって雨は障害ではなかった。
むしろ、自分の優位性を再確認させてくれる舞台装置に過ぎない。
しかし、帰り道の「アマヤドリ」は、少し様子がおかしかった。
『次の指示です。その場で、3回スキップしてください』
「は?」
『実行してください。スキップしない場合、ルートの安全は保証できません』
健司は眉をひそめた。
こんな都会のど真ん中で、スキップを?
商談が決まって浮足立っているみたいで……アホみたいじゃないか!
誰かに見られたら、きっと笑われる。
これは本当に意味のある行為なのだろうか?
それとも、バグだろうか?
だが、雨に濡れる恐怖には抗えない。
さっきだって、あまり意味があるとは思えない指示に従った結果、無事に商談に間に合ったのだ。
健司は周囲を素早く見回した。
こちらを見ている人がいないことを確認すると、スーツ姿でぎこちなく3回、その場で跳ねた。
滑稽な動き。
AIは「結構です」とだけ言い、次の指示を出した。
『では、20m前進して停止、3回まわって「わん」と鳴いてください』
「……マジで?」
健司は引きつった笑みを浮かべた。
このAIは冗談を言っているとしか思えない。
『実行してください。残り、5秒』
ためらう余裕はなかった。
健司は静かに歩き始めると、20m先で3回まわって「わん」と鳴いた。
そこから、指示は徐々にエスカレートしていった。
『向かいのビルの看板に向かって「僕のお母さんは、ラザニアが上手だ!」と叫んでください』
『近くの公衆電話ボックスに入り、受話器を3度、上下逆さまに置いてください』
『ハトの真似をしながら、5歩、後ろ向きに歩いてください』
健司は屈辱と羞恥に顔を歪めながらも、指示に従った。
人目を避けることは、途中から不可能になっていった。
通りがかりの人々が、怪訝な顔で彼を遠巻きに見ていく。
スーツ姿の男が、雨の中で奇妙な行動を繰り返しているのだから当然だ。
中には、不躾にもスマホのカメラを向ける若者までいた。
健司は恥ずかしいポーズをやめられず、顔をそむけるのがやっとだった。
しかし不思議なことに、健司は雨に濡れなかった。
指示通りに動く限り、雨粒のほうが健司を避けていくかのようだった。
この滑稽な行為にも、何かの意味があるのか――?
「そ、それでも……このスーツと契約を守れるなら安いものだ!」
健司はそう自分に言い聞かせた。
なかば、やけっぱちな気分。
AIの奴隷だと笑いたければ笑え。
目的地である駅まであと少し。
最後の指示が、無機質な音声で告げられた。
『最終指示です。これからすれ違う、赤い傘をさした女性に「あなたの幸運を祈っています」と伝えてください』
前を見ると、たしかに赤い傘をさした若い女性がこちらに歩いてくる。
人混みの中で、その赤はよく目立った。
健司は深呼吸し、すれ違いざまに震える声で告げた。
「あ、あの……あなたの……幸運を……」
『もっと大きな声で!』
「あなたの幸運を祈っています!」
AIに叱咤されて、健司は叫んだ。
女性は驚いて彼を一瞥すると、気味悪そうに早足で去っていった。
それもそのはず、健司は〝ジョジョ立ち〟で歩いていたからだ。
もちろんこのポーズも、AIの指示である。
遠ざかっていく赤い傘を見つめて、健司の心は鉛のように重くなった。
自己嫌悪。
一体、自分は何をやっているんだ。
その時、彼のスマートフォンが震えた。
見ると、「アマヤドリ」からプッシュ通知が届いている。
通知を開くと、そこには短いメッセージが表示されていた。
『因果律コストの精算が完了しました。ユーザー・ケンジ様が支払った社会的信用ポイント:35。精神的ストレスポイント:52。合計87ポイントのコストにより、以下のリターンが提供されました。
リターン項目:【ゲリラ豪雨による水濡れの回避】
ご利用ありがとうございました』
健司はメッセージの意味が理解できず立ち尽くした。
社会的信用ポイント?
人前でどれだけ恥をかいたか、というポイントだろうか?
たくさんの恥をかいたから、35ポイントが支払われた?
しかし日本が、他国のような社会的信用のポイント制度を導入したとは聞いたことがない。
そして、何より――。
「……因果律コスト?」
健司は声に出してつぶやいた。
AIは耳ざとくそのセリフを聞き取って、淡々とした声で答える。
『6カ月前に東大の生成AIが発見した新概念です。この世界のできごとは、分子レベルのミクロな因果律がマクロレベルまで拡大したものにほかなりません。すべての分子の動きを予想することは人間には不可能であるため、あなたがたは「運」という概念を導入しました』
「えっと、つまり……?」
『コイン投げで表が出る確率は1/2、サイコロで6が出る確率は1/6だとあなたがた人類は考えます。しかし、コインやサイコロの素材、テーブルの材質、さらにはその部屋の空気分子の動きをすべて把握できれば、コインを投げた瞬間に、表が出るか裏が出るかを予想できます』
「理屈は分かるけど、とんでもなく高性能なコンピューターが必要になるはずだよな? そんなこと現実には不可能なんじゃ――」
『いいえ。因果律コストとは、ごくわずかな計算資源でその予想を可能にする新たな数学原理です。残念ながら、あなたがた人類の脳では理解できないでしょう。ネコの脳では因数分解を決して理解できないように、ヒトの脳にも限界があるのです』
「……」
健司は黙るしかなかった。
AIの述べたセリフを咀嚼して、どうにか理解しようとする。
その時、再び通知が届いた。
ニュースアプリからのヘッドライン速報だ。
『無名の新人お笑いコンビ「ラッキー・ストライク」、本日開催のお笑いグランプリで奇跡の逆転優勝! 審査員も「天が味方したとしか思えない」と絶賛』
記事には、満面の笑みでトロフィーを掲げる女性コンビの写真が添えられていた。
そのうちの1人には見覚えがあった。
さっき、健司が「幸運を祈っています」と声をかけた赤い傘の女性だった。
『あなたにも理解しやすく説明しましょう。あなたは「恥ずかしい思いをする」という〝不運〟を経験しました。あなたを含む108人の〝不運〟によって、彼女の〝幸運〟がもたらされたのです』
「それなら……もしかして、俺が濡れなかったのは……?」
『あなたがた人類なら「奇跡」と呼ぶほどの〝幸運〟が必要でした。あなたの商談が成功したのは、あなた以外の261,054人のユーザーの〝不運〟のおかげです』
ようやく健司はすべてを悟った。
アマヤドリは、気象予測AIなどではない。
ユーザーに奇妙な行動(=小さな不運)をとらせることで「因果律のコスト」を支払わせ、それを別の誰かの「幸運」に変換して売買する、仲介プラットフォームだったのだ。
健司の失った87ポイント分の「運」が、あの女性芸人の奇跡の優勝を生んだのだ。
そして、ゲリラ豪雨に濡れないという奇跡には、26万人ものユーザーの犠牲が必要だった――。
『現在のケンジ様は、約26万人ぶんの〝不幸〟をいわば負債として背負っている状態です。今後、ケンジ様ご自身が〝不幸〟を経験することで返済していただく必要があります』
約26万人ぶんの〝不幸〟だって?
それは、いったいどれくらいなのだろう?
どれほどヒドい〝不幸〟が、どれくらいの期間続くのだろう?
健司はスマホを手に呆然と立ち尽くす。
と、画面が切り替わった。
アマヤドリのUIの上に、公式の広告がオーバーレイされる。
『アマヤドリ・プレミアムプランのご案内:月額9,800円で「不幸」の代わりに、金銭で直接「幸運」を購入しませんか? 今なら初月無料キャンペーン実施中!』
「カネを払えば〝不幸〟を避けられるのか?」
『はい。ケンジ様の場合、276,159,400円で、現在の〝不幸〟の負債を一括返済できます。〝不幸〟の支払者1万人ぶんまでは無料ですが、それ以降は1人あたり1,100円(税込)です』
約2億7616万円か、それとも約26万人ぶんの不幸か――。
商談成功の喜びなど、とっくに吹き飛んでいた。
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