その迷宮は、“感じること”で進んでいく。―少女は迷宮で、世界を知る―
朝凪 ひとえ
第1話 眠る感覚
ふと、まぶたの裏が白く滲んだ。
呼吸の仕方を忘れていた。胸が上下するのを待って、ようやく「ああ、生きている」と思い出す。けれど、どこか違う。空気が冷たいのでも、酸素が薄いのでもない。――これは、“自分の体じゃない”ような感覚。
目を開けた。見慣れない、薄紫色の天井が広がっていた。
冷たい床。霞がかった光。どこからともなく聞こえる、微かな鼓動のような音。まるでこの空間そのものが、誰かの身体の中で脈を打っているようだった。
立ち上がろうとして、手をついた瞬間、ひやりとした感触が走った。金属でも石でもない。しっとりとしていて、なぜか柔らかい。
「……どこ?」
誰にともなく呟いた自分の声が、奇妙に響いて返ってきた。
わたしは――誰?
そこまで思って、息が止まった。
名前が、出てこない。
家族の顔も、通っていた学校も、友達の名前も、何ひとつ、思い出せない。ただ、自分が「少女である」という実感と、体の輪郭をなんとなく知っているという確信だけが、ぽつりと残されていた。
ふと、目の前に一枚の扉が現れた。淡い光で縁取られたそれは、最初からそこにあったのか、それとも今、出現したのか。
何かに導かれるように、わたしは扉に手を伸ばした。
――じわり。
指先が触れた瞬間、指の腹がじんわりと熱を帯びる。体の奥がくすぐったくなるような、どこか、懐かしいような。そんな不思議な感覚が伝わってくる。
「……気持ち、いい……?」
わたしは自分の口から出た言葉に、少し戸惑った。けれど、それは確かに“感じた”ことだった。そう、まるで……感じることそのものが、なにかを思い出す鍵のように。
ゆっくりと扉が開くと、目の前に広がっていたのは、無数の小部屋が浮かぶ螺旋状の回廊だった。
空間が、脈動している。
それぞれの部屋から微かに漏れる光、音、香り――どれもが、わたしの内側にある“何か”を揺らしてくる。どの部屋も、扉が開かれるのを待っているかのように、静かに震えていた。
「これは……」
自然と口をついたその言葉に答えるように、後ろから声がした。
「ようこそ、エクリティアへ」
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。淡い銀髪に、長い睫毛。その瞳はまるで、深い湖底に光が射し込んだような透明感を湛えていた。
「……あなたは?」
「アリュシア。案内人……みたいなものよ」
彼女の声はやさしく、それでいてどこか意味深で、眠っていた感覚をくすぐるようだった。何かを知っている顔。何かを隠している瞳。
「あなたは、わたしのこと、知ってるの?」
「全部じゃないけど……少しだけ。あなたがここに来た理由も、少しだけ」
アリュシアはゆっくりと歩み寄ってきて、わたしの手を取った。驚くほど冷たくて、けれど、それが不快ではなかった。
「ねえ、覚えてる? “感じること”が、どれだけ素敵だったか」
「……感じる、こと……?」
彼女の手のひらが、わたしの頬に触れる。次の瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
――快感。
それは、甘い果実を噛んだような幸福で、けれど、ほんの少し怖かった。自分が“わたし”に戻ってしまうような、そんな予感。
「エクリティアは、“感覚でできた迷宮”なの。触れて、感じて、受け入れて……そうすることで、あなたはこの世界を進めることができる」
「じゃあ……感じなければ、進めない?」
「ええ。感じることが、すべてを開く鍵」
アリュシアの言葉に、わたしの体がふっと震えた。まるで、彼女の指先がそのまま迷宮の扉の鍵であるかのように。
どうしてだろう。怖いはずなのに、この世界の奥へ行きたいと思った。
“わたしがどうしてここにいるのか”、それを知るために。
それとも、わたしが何を“感じたかったのか”を、確かめるために。
扉がまた、ひとつ開いた。
わたしの中に、わたしの知らないわたしが眠っている。
――その感覚だけが、確かだった。
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