境の子

@tomooon777

序章:雨音の記憶


 それは夢だったのかもしれないし、夢ではなかったのかもしれない。


 湿った土の匂いが、どこからともなく漂ってくる。息を吸うと、それが肺の奥にしみ込んでいくようだった。冷たく、やわらかで、どこか懐かしい。だが、思い出そうとすると指の間から水がこぼれるように、その懐かしさは形を持たないままだった。


 目の前にあるのは、霞がかった風景だった。


 木々がゆれていた。葉の裏を撫でていく風が、鈍く湿った音を立てて通り過ぎていく。その音はどこか遠く、まるで水の底で耳をすましているかのようだった。音は輪郭を持たず、ただ震えていた。光も同じだった。木洩れ日なのか、霧なのか、見上げても空の形はわからなかった。


 何かが、こちらを見ていた。


 その「何か」は人の形をしていたかもしれないし、していなかったかもしれない。

 ただ、そこに“誰か”がいる──そうとしか言いようのない感覚があった。


 声は聞こえなかった。けれど、耳ではない場所が「語りかけられている」と感じていた。

 それは言葉ではなく、祈りでもなく、もっと古く、深いもの。

 たとえば、水脈が地中を這うような。

 たとえば、胎内の暗がりで心音が初めて響いたときのような。


 私は、まだ自分が誰であるのかを知らなかった。

 名前も、輪郭も持たないまま、ただ“在る”という状態だけを生きていた。


 そのとき、風が止んだ。


 すべての音が消えたわけではない。

 音はあった。ただ、それがこの世界のものではないと、知っていた。


 雨が降っていた。

 気づかぬうちに、細く、透明な雨が、空から静かに落ちていた。

 それは地面を濡らすこともなく、ただ宙を漂っていた。


 「かえれ」


 声がした。


 いや、そう“聞こえた”だけかもしれない。けれど、確かに意味を持った響きが胸の奥に届いた。それは拒絶のようでもあり、慈しみのようでもあった。

 その音に触れた瞬間、風景が崩れはじめた。


 木々がほどけ、空が裂け、音が逆流し、私は宙に浮かび上がる。


 そして次の瞬間、まぶたの裏に光が差した。


 


 ──朝だった。


 布団の中にいた。頬には、涙とも汗ともつかない湿り気が残っていた。

 窓の外には、薄曇りの空と、遠くで鳴く鳥の声。

 あれが何だったのかを言葉にできず、湊はただ、胸の奥に残った水音のような記憶を抱えたまま、ゆっくりと目を開けた。


 春のはじまり。

 雨が降った気配もないのに、庭の草が濡れていることに、湊は気づいていなかった。

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