第三章 偽・乙女恋戦鎮魂曲 その十四



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 俺は今まさにメメの勇姿を目撃していた。絶対的な不条理を前に、彼はその拳を構え、ついに単身で闘いを挑んだのだ。


 二人の体格差を見れば、メメの敗北は誰もが予想できた。


 しかし、ヘッドの鉄拳が降り注ぐ刹那、突撃するメメは体勢を崩し、奴のズボンをパンツごとずり下ろしてしまったのだ。無論、奴は自分の下半身を公衆の面前に晒す羽目になった。観衆からは悲鳴が上がり、奴は見事なリーゼント頭を揺らしながら、羞恥の顔で四方を見回していた。


「――ああ! お兄様が‼」


 俺の隣に立つマドンナが叫んだ。ヘッドの足にかかったズボンを掴み、地面に突っ伏すメメは、奴の執拗な足蹴に晒されていた。メメは、その手を放すことはなかったが、体は伸びたままでぴくりとも動かない。転倒した拍子に怪我をしたのか、あるいは気を失ったのか……。


「おい兄貴……」


 妹は不安げに俺を見た。


「ああ、任せておけ」


 ヘッドの怒りがメメの……いや、メメに変装したマドンナの何に起因するのかは知らないが、ただ一つ分かることは、これが思い込みにも等しい、奴の一方的な八つ当たりに過ぎないということだ。もはやこれまで組み立ててきた奴なりの言い分などどうでもいいのだろう。予想に反して立ち向かってきたメメを感情のままにねじ伏せる――周囲に人の目がありながら、平然とそれが実行できてしまうあたり、奴の中にある驕りは収拾不能なまでに肥大化してしまっているようだ。


 いずれにせよ、メメがああして足蹴にされる理由はない。俺が現場に向かおうと身を乗り出した時、けたたましい複数のエンジン音が施設のフェンスを突き破り、競技場の中へと乗り込んできた……百人はいるだろうか。皆若く、見るからに素行の悪そうな輩だった。おそらくこれもヘッドの差し金だろう。廃工場での計画が失敗に終わり、ついにやけでも起こしたのだろうか。


 しかし、たった一人への報復のために、口八丁でこれだけの不良仲間を誘い出したのだとすれば、なるほど悪人根性も見上げたものだ。


 会場が騒然とする中、派手に登場したバイクの集団はあっという間に二人を取り囲んでしまった。


「――やれやれ、奴らはよっぽど暇なのかねえ」


 にへらと笑う男――俺の下へと近づいてきたのは、同輩のブロだった。


「……お前がここにいるということは、まさかこの状況も織り込み済みではないだろうな」


「俺の仕事がそこまで信頼されているのだとしたら、まあ、悪い気はしないな」


 ブロは鼻で笑うと、困惑するマドンナの方へと振り向いた。


「しかし、見れば見るほどお兄さんとそっくりだな。これは奴らも見間違えるわけだ」


「あなたは……」


「ただの腐れ縁だよ」


 ブロは俺を指差し、それから、不良集団が占拠する陸上トラックを見下ろした。


「さすがに坊一人では分が悪いか」


「負けるつもりはない」


「おいおい、勝負ってのは、勝つ見込みがあって初めて挑むものだ。敵を知らずに飛び込むのは、あそこでバイクを吹かしている奴らだけで十分だろ?」


 ブロは不良たちを小馬鹿にすると、ズボンのポケットから携帯端末を取り出す。


「……俺だ。相手は百人ってところか……ああ、問題ない。始めてくれ」


 ブロは携帯端末から耳を離す。


「坊、お前も自由に暴れてもらって構わないぞ。言い逃れの算段はすでについている」


 その言葉の真意を知るのに、さほど時間はかからなかった。


「――お前ら全員、男気を見せろおおおおお‼」


 聞き覚えのあるその怒声は三年電気科の同輩が発した雄叫びだった。異変に気付いたのか、不良集団は次々にバイクを降り、競技場になだれ込む男たちに身構える。


「先日の混浴風呂の一件でメメに恩義がある電気科三年の同輩たち。それから、一昨年、流星高校と乱闘騒ぎになり、いまだ遺恨がある土木科三年の連中――ざっと合わせて八十人ってところか」


 ブロは、乱闘の様子を見下ろしながら、飄々と言ってみせた。


「……これは大事だな」


 まるで不良映画の撮影現場を見学している気分だという感想が口からこぼれそうになったが、いつまでもここで呆けているわけにはいかない。俺はメメの下へ向かうために急いで踵を返した。


「――坊君!」


 駆け出す俺の背後から、マドンナの声が飛んできた。俺は振り返り、彼女の言葉を待った。


「……お兄様を助けてください」


「ああ、任せておけ」


 涙声のマドンナに、俺は答えた。


 マドンナよ、泣かなくていい。友が困難に直面しているならば、俺はこの手を差し伸べよう……ただそれだけのことなのだ。


 俺は観客席の階段を駆け下り、一階席の手摺りを飛び越えた。工業対流星の乱闘は混戦を極めている。四方で繰り広げられる取っ組み合いをかいくぐり、俺は、ヘッドに足蹴にされるメメの下へと急いだ。


『――放送室より連絡します』


 平板なチャイムとともに女性のアナウンスが鳴り響く。


『先ほど、流星高校の生徒による妨害行為が発生しました。場内の皆様は問題が解決するまで今しばらくお待ちください。なお、校外活動として、本大会の応援にかけつけた一部の生徒が陸上トラック内に侵入しておりますが、これは不可抗力によるものであり、彼らには一切の非はありません。繰り返します。流星高校の生徒による――』


 ……ブロは大会の関係者まで買収したのか。やはりどこまでも抜け目のない奴だ。


 俺は乱闘騒ぎの真っただ中を突っ走る。時折、見知った同輩の取っ組み合いとすれ違いながら、俺はようやくメメの下へと辿り着いた。彼は変わらずヘッドの足にかかった布地を堅固に握りしめたまま、うつ伏せの状態で地面に突っ伏していた。一方、奴は自分の下半身を両手で押さえながら、微動だにしない彼を執拗に足蹴にしていた。


 この時、俺は何かを叫んでヘッドに飛びかかるべきだったのかもしれない。


 しかし、とうとうヘッドにかける言葉を見つけられなかった俺は、もはや呆れに近い感情を抱いたまま、目の色を変えてメメを踏みつけにする奴にゆっくりと近づき、その顔面に渾身の鉄拳を食らわせた。握り締めたメメの両手はようやくとかれ、奴はずり落ちた下着とともにその体を宙に浮かせた。


「……おい、メメ! 大丈夫か⁉」


 メメのユニフォームはボロボロになり、体中、至るところが傷だらけだ。鼻からは痛々しく血を流している……彼はすでに気絶しており、俺の声には応答しなかった。


「誰かと思えば、工業高校のアホザルじゃねえか……これはお前の差し金か?」


 仰向けに転ぶヘッドはよろよろと立ち上がると、ようやく戻ってきたズボンをずり上げた。


「……何の話だ?」


「しらばっくれるんじゃねえ! この乱闘騒ぎの首謀者はお前かって聞いてんだ‼」


「場内のアナウンスは聞こえていたはずだ。俺たちは皆、校外活動の一環で選手の応援に来た超真面目君だ……お前たちは違うみたいだが」


 俺が告げると、ヘッドは苦虫を噛むように押し黙った。


「真に女々しいのは、メメか、お前か……そのリーゼントが飾りでないと言うのならば、姑息な真似はするべきではなかったな。ヘッドよ」


「俺が女々しいと言いたいのか? いい度胸じゃねえか……この乱闘騒ぎだ。死人が一人出たところで、殺っちまった人間は分からねえだろうな」


 ヘッドはずり上げたズボンのポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。奴はそれを展開すると、俺に向かって飛びかかってきた。


 しかし、互いの力量の差など、俺がヘッドに一撃を食らわせた時点で分かり切っていた。俺は奴が振り下ろしたナイフをかわし、その顔面に渾身の鉄拳を叩き込んだ。奴は後方に吹き飛び、体を地面に打ちつける。俺は、転がる奴の胸ぐらを引っ掴み、狙いを定めて右腕を振り上げた。奴の顔は分かりやすく恐怖に歪んでいた。これまでの奴の蛮行を鑑みれば、今ここで見過ごすことなどできるはずがない。


 ……このまま口が利けなくなるまで殴りつけてやろう。優位に立つ俺は自分の正義感を振りかざし、ヘッドへの制裁を決断した。果たしてそれが正しい行いなのかは、冷静さを欠く今の俺には分からなかった。そこにあるのは、胸ぐらを掴み、拳を振り上げる俺と、恐怖に怯える奴の哀れな姿だった。四方では見境のない乱闘騒ぎが続いている。もはやそこに義侠心による目的は存在しなかった。皆、沸き起こる暴力的な感情のままに近くの敵を殴りつけているに過ぎなかった。


 今ここで、俺がヘッドを殴りつけることは容易い。


 しかし、この乱闘騒ぎを鎮圧することは極めて難しい。腕っぷしでこの騒ぎを解決するつもりならば、百人近くいる不良たちを一人残らず殴りつける必要がある……俺たちの本当の目的は何だ? ……ヘッドの暴威からメメを守ることだったはずだ。場内の乱闘騒ぎは佳境に入っていた。渦中にいる俺たちは、もはやそこに身を曝している自覚すら持てなくなってしまっていた。

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