第一章 偽・乙女恋愛狂騒曲 その十

「――危ない!」


 前方で女の人が叫んだ時、僕は、目の前の子供を避けることに気を取られていました。顔を上げると、そこには道を横切るように衣装ラックが列を成していました。近くで披露宴でも開かれるのでしょうか。そこにかけられた衣装は真っ黒なタキシードや煌びやかなドレスばかりだったのです。


 ……その後の展開は想像に難くありません。僕はその衣装ラックに真正面から突っ込んでしまったのです。何枚もの衣装をかいくぐり、やっとの思いでそこから飛び出した時、なぜか僕は純白のウエディングドレスを身に纏っていました。持っていた学生鞄はブランド物の小さなポーチに代わっています。中身は……良かった。財布は迷子になっていませんでした。後は小さな手鏡が一つ……わあ、素敵なお化粧ですね。やっぱり僕って女装の才能があるみたいです……って、さっきの一幕でどうして僕の顔に完璧な化粧が施されているのですか⁉ ……もしかして僕が知らないだけで、女性の化粧とはこういうものなのでしょうか。


 幸いなことに、用心して履いていた運動靴だけはそのままでした。僕は「ごめんなさい!」と大声で謝りながら、ドレスの裾を持って駆け出しました。振り返ると、さっきの衣装ラックが障壁となり、坊君たちは立ち往生していました。わざわいを転じて福とすとはきっとこの状況を指しているのでしょう……しかし、ドレスというのは、どうしてこうも走りにくい形をしているのでしょうか。油断をするとすぐこけそうに――あっ! 


 体勢を崩した僕は、中腰でカメラを覗く男の人に後ろから衝突してしまいました。僕は盛大にひっくり返り、アフロ頭の彼はカメラを掲げて死守しながら、まるでキッチンの束子みたいに全身を地面に擦りつけました。


「な、何してくれとんじゃい⁉」


 アフロさんは叫びながら僕の方へと振り向きました。


「ごめんなさい!」


 僕は頭を下げながら、またしても大声で謝りました。


 ああ、僕は今日、何回謝れば赦されるのでしょうか。恐る恐る顔を上げると、カメラを抱えるアフロさんは怒りの表情を見せるどころか、その目をきらきらと輝かせて、僕の顔をまじまじと覗き込んでいました。


「……グレイテスト。ユー、モデルをやらないか?」


 アフロさんは言いました。


「はい?」


 僕は思わず首をかしげました。アフロさんの後方に目をやると、若い男女が壁際に立ち、何やらかっこいいポーズを決めています。どうやら彼はカメラマンで、お洒落な人たちを撮影することが仕事のようでした。


「ビビッときたんだ。まさにインスピレーション! セレブレイトでキュート! だけど、ちょっぴりパワフルっていうのは、僕にとってはマジでマジカルなのよね」


「インスピ? マジカル?」


「さあ、ベイビーちゃん。僕の画角にバチッと収まっちゃいなよ」


 アフロさんはそう言うと、二人のモデルさんのことはそっちのけで、僕の方に一眼レフカメラを構えました。


「あの、その……ごめんなさい!」


 僕は頭を下げ、ポーチで素顔を隠しながら駆け出しました。


「オーノー!」


 後方で頭を抱えるアフロさんが叫びました。


 ……叫びたいのは、僕の方です。衣装ラックの障壁に遮られていた群集はなぜか披露宴の正装に身を包み、逃走する僕に迫ってくるではありませんか。まるで新進気鋭のゾンビ映画を見ている気分です。それもゾンビが全速力で追いかけてくるタイプの、最も質の悪いやつです。


「――好きだー!」


 拳を振り上げた坊君はサイズがぴったりのタキシードを身に纏い、走る群集の先頭で偽りの愛を叫び続けています。そんなに好きなら、まずはその拳を下ろしてください! 暴力は歪んだ愛情表現です! ダメ。ゼッタイ。です‼ 


 いくら体力に自信がある僕だって、丸一日走り続けることはできません。そもそも僕の専門は短距離走なのです。駅ビルからここまで休みなしで走っていますが、正直、もう限界です。何か策を打たなければ、今に彼らに捕まり、シクシクと泣きべそを掻くことに……泣くだけで済めばいいのですが。


 というか、僕は今、目に涙を溜めながら走っています。男なのにドレスを着て、素敵な化粧を施されて、白昼堂々走り回っているわけですから……それは涙の一つも出てきますよ。


 月ノ下商店街を直進する僕はついにその分岐点まで走り抜けてしまいました。目前の十字路を左折しなければ、僕はこの姿で公道に飛び出すことになってしまいます。僕に残された選択肢はここで立ち止まらずに左折し、車道を挟んでまだまだ続く商店街の物陰に身を隠すことだけでした。


 ああ、聖クレア女学園の女神様。できればご慈悲を、僕に救いの手を差し伸べてください。女装はもう二度としないと誓います。


 だからどうか、僕にいい感じの救いを与えてください。


 ――ボフンッ。その二つの柔らかい感触は、全速力で左折した僕の顔を優しく受け止めました……甘くていい匂いがします。視界は真っ暗になり、ドレスの裾を支えていた両腕は衝突した何かを抱き締めるようにして、僕はそのまま前のめりに倒れ込んでしまいました。不甲斐ないことに、僕はまたしても接触事故を起こしてしまったのです……迂闊でした。僕が考え事をしていたばかりに。


「……痛ってえなあ」


 うずめた顔を振動させるように、荒っぽい口調の声が聞こえてきました。どうやら僕は見知らぬ誰かの胸に飛び込んでしまったようです。何がとは言いませんが、とっても大きくて柔らかいです。恐る恐る顔を上げると、ガシガシと頭を掻く不機嫌な女の人がそこにいました。

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