偽・乙女恋愛狂騒曲

久保慧眼

第一章 偽・乙女恋愛狂騒曲

第一章 偽・乙女恋愛狂騒曲 その一



    ▲



 ――桜の花弁が路面を薄桃色に染める季節、路地裏を行く乙女は小麦色の肌をしていた。


 この街には三つの高校が隣接する区画がある。四月初めの正午過ぎ、乙女はせいクレア女学園のセーラー服を着て、M高校と工業高校を線引きする細い路地裏を歩いていた。工業高校に進学して三年目になる俺は実習棟四階の非常階段から路地裏を覗き込んでいた。突き当たりには駅ビルがある。おそらく彼女は電車で通学しているのだろう。


 それ以来、俺は乙女のことを片時も忘れたことがない。世間はこれを一目惚れや恋煩いなどと捉えるが、果たして今の俺の心情をそんなありきたりな用語で論ずることができるだろうか。無論、できるはずがない。すらりとした体型、整った目鼻立ち、腰まで伸びた艶やかな黒髪――確かに、乙女は美しかった。


 しかし、俺が乙女に思慕を寄せる理由は別にあった。俯きながら歩く彼女はまるで人生の全てを諦めてしまったような悲哀と絶望を、うっすらとだが、その美しい顔に湛えていたのだ。彼女は誰にも開示できない重大な秘密を抱えているに違いない。俺は今まで一度だって、あんなにも切ない女子とは出会ったことがなかった。


 幸い、実習棟は路地裏のすぐそばに建てられていた。乙女は今まさに過ぎ去ろうとしている。気付けば、俺は非常階段の手摺りから身を乗り出し、「君よ!」と叫んでいた。彼女は驚きで体を小さく跳ねらせ、それから、こわごわとこちらを見上げた。


「好きだ!」


 俺は間髪入れずに叫んだ。今思えば、配慮に欠ける行為だったと言わざるを得ない。実際、俺の言葉を聞いた乙女は学生鞄で顔を隠すと、「ごめんなさい」とだけ言い残し、駅ビルの方へと走り去ってしまったのだ。


 乙女には申し訳ないことをしてしまったと思っている。


 しかし、この恋心を容易に払拭などできようものか。桜の花弁がとうに散り終えた今もなお、俺はこうして乙女との再会を待ち望んでいる。



    ●



 僕はいつか彼に謝罪をしなければなりません。それは分かっているつもりです。


 あの日からもう一週間がたちましたが、放課後になると、彼はいつも校舎の非常階段から路地裏を見下ろしています。僕がM高校の陸上部員として活動している間、彼は必ずそこに立って、ある思い人を待ち続けているのです。凛々しい眉をした彼は仁王立ちで腕を組み、同輩らしき人たちに「おい、ぼん」と呼ばれるまでは決してその場所を離れようとしません。雨の日も、風の日も、もしかしたら休みの日も、独りで路地裏を見下ろしているのかと思うと不憫でならないのです。


 だって、彼の思い人はもう絶対に姿を見せないのですから。


 思い起こせば、僕が初めて女子の服を着たのは、去年の冬至を迎えたころでした。来年度から受験生になる僕は将来の展望なんて見据えておらず、勉強にも精が出ず、周囲からは「メメ、メメ」と……あ、これは僕が女々しいから付けられたあだ名です。


 つまり、僕は自分の不甲斐なさや、不名誉なあだ名で呼ばれることや、その他の諸事万端がストレスとして重なり、もういっそと二歳年下の妹の私服に手を伸ばしてしまったのです。


 初めは週末の夕闇に乗じて、人目に付かない場所をふらつく程度でした。街の人たちは僕を見ても顔色一つ変えずに擦れ違っていきます。きっと僕の見た目も心も本当に女々しいからでしょうね。


 僕はこの時、男として完全なる敗北を喫しました。


 だけど何だか、女子として街を歩くことで、とても晴れ晴れとした、爽やかな風が僕の心を通り抜けていくような、そんな気持ちになったことは事実です。


 僕はウィッグを買いました。黒髪で真っすぐなロングヘアです。ウィッグを被り、姿見の前に立った僕は、ついに男ではなくなってしまいました。そこには、僕ではなく、容姿が似た妹でもない、この世には存在しないはずの可憐な乙女がいたのです。


 誰でもない僕は昼の街を徘徊するようになりました。周囲から奇異の目で見られることはありませんでした。


 それどころか、メメという差別的なあだ名も、この時ばかりは自分の女装の完成度の高さを認められているようで誇らしいとさえ思うようになりました。


 このままつらい現実から逃げてしまおう。ストレスの捌け口を手に入れた僕はどこか浮かれていました。


 ――それから数か月後、例の事件は起きてしまったのです。


 その日、M高校では始業式が執り行われ、午後の授業はありませんでした。三年生になった僕はというと、仮病で部活を休み、一目散に帰宅していました。今年、聖クレア女学園の高等部に進級した妹が帰ってくるのを自室で待つことにしたのです。


 僕の予想通り、妹は正午ごろに自宅へと帰ってきました。僕と違って、彼女は社交的な性格をしていますから、もうすでに友達ができたのでしょう。彼女は自室で私服に着替えると、昼食も取らずにどこかへ出かけてしまいました。


 しばらくして、僕は妹の部屋に侵入し、彼女が脱いだばかりのセーラー服をクローゼットから拝借しました。幸か不幸か身長が同じということもあり、僕は彼女のセーラー服に難なく袖を通すことができました。ウィッグを被り、姿見の前に立ちます。そこにいたのは、紛れもなく聖クレア女学園の生徒でした。


 僕は自宅に誰もいないことを確認し、ひっそりと外へ抜け出しました。僕は、メメではなく、名もなき一人の女子生徒として、帰ってきたばかりの通学路を歩き始めたのです。


 電車で二駅先の駅ビルまで移動し、そこから路地裏を真っすぐ突き当たりまで進むと、聖クレア女学園の正門前に辿り着きます。僕はそこで聖母の像が装飾された校舎を見上げた後、たった今歩いてきた道を引き返すことにしました。聖母が見守る手前、実に背徳極まりないのですが、僕はどうしても道行く生徒に紛れて下校する気分が味わいたかったのです。


 僕はM高校と工業高校の間に敷かれた狭い路地を駅ビルの方に向かって歩いていきます。周囲の生徒たちは僕の正体に気付きません。僕の女装は完璧でした。


 ……そう、完璧過ぎたのです。


「――君よ!」


 男の人の叫び声が路地裏に響きました。その声の矛先に気付いた時、僕の体は酷く強張り、心の中では焦燥と恐怖が渦巻いていました。ああ、女性の容姿に造詣のある誰かがついに僕の正体を見抜いたのか……僕は処刑台に上るような気持ちで工業高校の方を見上げました。


「好きだ!」


 彼は校舎四階の非常階段から、こちらを覗き込むように叫びました。思考が追いつかない僕は、ひとまず自分の正体が露見したわけではないことを察しました。


「……ごめんなさい」


 僕はそう告げると、彼に正体を見破られないように学生鞄で顔を隠し、駅ビルの方へと駆け出しました。


 ――それ以来、僕は妹のセーラー服はおろか、私服にさえ手を出してはいません。あんなにも危険な橋は二度と渡らないと心に決めたのです。


 それからというもの、坊と呼ばれていた彼にお詫びをすることばかりが僕の思考を占領するようになりました。良く晴れた休日の今日も、僕は街中を散歩しながら、『そもそも聖クレア女学園は恋愛禁止なのだから、告白の返事をする筋合いはないじゃないか』と悩みを解決するための整合性が取れた理由を考えてみても、やはり放課後に路地裏を覗き込む彼のことを思うと、自分の不甲斐なさに悶々と唸ってしまうのでした。


 三つの高校が隣接する区画は、まるで玩具箱をひっくり返したような街の中心部に位置していて、近くには商業ビルが建ち並び、つきした商店街は今日も多くの人たちで賑わっています。


 駅ビルに到着した僕はエレベーターで屋上階へ向かうことにしました。目的はこの街を一望できる観覧車に乗ることです。面識のない相手に謝罪する方法を熟考したところで、埒が明かないことは分かっています。僕はせめてもの気晴らしに見晴らしのいい景色を眺めることにしたのです。


 僕はいつの日からか、つらい時は独りで観覧車に乗るようになりました。これは僕なりの処世術のつもりです。現状が変わるわけではないですが、気分転換にはなるので、個人的にお勧めのストレス発散法です。


 ……と独りぼっちで考え事をしている間にも、ゴンドラを待つ行列はどんどん消化されていき――ついに僕の順番がやって来たようです。僕は前列の人に続いてゴンドラに乗り込むと、慣れた手付きで扉を閉め、そのまま固い椅子に座りました。顔を上げると、正面の席には工業高校のブレザーを着た彼が威風堂々と座っていました。

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