第27話 地獄
河城生まれ河城育ちの男
「あなた、中に入って来たら」
家の中から春鈴の声がする。
「いや、うん……」
そう曖昧な返事をした時に遠くから声がした。
「ギョワン様の軍が帰ってきたぞー‼」
ああ、なんだ。取り越し苦労だったと李譲はほっと胸を撫で下ろし家の中に入った。妻の春鈴は料理をしていて、紅児は床に座って遊んでいる。しかし、紅児は李譲の顔を見るや否や泣き始めた。李譲は慌てて紅児を抱き上げる。
「どうしたんだい」
「あなたが不安そうにしているからよ」
と台所から妻。李譲は娘を抱き寄せ頬ずりする。
「ああ、そうか。ごめんな、ごめんな。怖いことは何も無いんだよ。ここの兵隊さん達が勝ったんだよ」
泣き止まない娘をあやしながら、李譲はやっぱり店を開けようかと考えていた。
事が李譲が考えていたのとは違うと彼のいる所まで伝わってきたのは、一時間ばかり経ってからのことだった。つまり、河城軍は敗走して来たのだと。叛乱軍は河城までやって来て今この城を攻めているのだと。
「あなた……」
「……だけど、ここの城は壁が三重になっているから……」
李譲と妻子は家の扉を閉め、奥にある寝室で三人身を寄せ合って座っていた。だが夜が更けてから、辺りに火の手が上がるようになった。四方から叫び声が聞こえる。李譲と妻は顔を見合わせると娘を抱えて家から飛び出した。家は坂道に建っている。坂の下から次々に人が走って来る。そちらに目を移せば遠くの方に鎧を着こんだ人間が何人も見えた。李譲にもそれが河城の兵士ではないということが分かった。
「紅児を渡せ。俺が抱えて走る」
「いいえ、私が」
言い争っている暇は無い。結局妻に抱えさせて、李譲達は東へ向かうことにした。この城はもう駄目だと思った。叛乱軍が西から来たのなら東に逃げて東門から外に出るべきだ。あちこちから火の粉が飛んでくる。その中を李譲達は走った。
しかし、ある程度走ったところで、住民達がまた引き返して走って来ていた。東に行く人間と西に行く人間で路上はもみくちゃになる。東から来た人間は「駄目だ」と口々に叫んでいた。
「駄目⁉ 何が駄目なんだ」
東側、坂の上に目を向けるとそちらからも次々に火の手が上がっている。李譲はゾクリとした。あちらからも叛乱軍が来ているのだ。どうすればいいのか、西も駄目、東も駄目。ならばもうどこかに匿れるしか。そう思って妻に声を掛けようとしたところで、李譲は傍らに妻の姿が無いことに気が付いた。辺りにあるのはただ人の波ばかり。春鈴……?
「春鈴ー‼ 紅児ー‼」
李譲は大声で呼ばわるが返事がない。ただただ人の波が続く。目を凝らしても妻子の姿は見えない。李譲は声も涸れんがばかりに叫び続ける。しかし、同じように叫ぶ声が方々から上がって李譲の声はほとんどかき消されそうになった。どうすれば。そう考えている内に坂の上、すぐ側で悲鳴が上がった。遂にそこまで敵軍がやって来たのである。もうその兵隊の姿は李譲にありありと見えた。
「春鈴ー‼ 紅児ー‼」
辺りを見回す。いない。いない。喉が渇く。李譲は側にいた男からの返り血を浴びると、その場から一散に駆け出した。南して路地に入る。李譲はそこの物陰に隠れて満身震えた。戻らなければと思った。戻って探さなければと。しかし、もうあんな状況で探すこともできないのは確かで。李譲はただただ震えた。
そうしている内に女が目の前を通り過ぎた。衣服が乱れている。それを後ろから走って来た兵士が羽交い締めにする。悲鳴が上がった。兵士は女を組み伏せると衣服を剥ぎ取り犯し始めた。李譲は息を呑む。ただ女の咽び泣くような声が続く。李譲は平生正義感の強い男である。しかし、その男がこの光景を見て何もできなかった。李譲は目を瞑り、目の前の女のことではなく妻のことを考えた。絶対に探し出さねばならない。
その行為が終わった後、女の首は裂かれた。兵隊が去った後物陰から出た李譲は、駆け出す前に女に手を合わせた。
はぐれたであろう所に戻る。すなわち東西に向かう人でもみくちゃになった場所へ。しかし、そこに戻った李譲は言葉を失った。そこには生きた人間はおらず、死体の山が積み重なっていたからである。李譲はふらふらと歩いた。見つかって欲しくないと思いながら。その時、坂の下の方から騎馬がやって来た。今のこの状況で馬に乗っている人間と言えば敵に違いない。李譲は死体の山に隠れた。冷たく、血でぬめった。息を殺す。馬の蹄の音が近付いてくる。近付いて、近付いて、そして李譲の前で止まった。
腕を掴まれ死体の山から引きずり出される。李譲は悲鳴を上げた。
「許してください、許してください、許してください」
馬の主は無感動に李譲を見下ろす。
「お前、金は持っているのか」
「え、は、はい!」
李譲が財布を出すと、その兵隊はそれを引ったくり、李譲をぶん殴って坂の上の方へ去って行った。李譲はその場にへたり込む。そこにまた一騎通りがかった。
「お前金目のものは」
李譲は言葉が出ない。しばしの沈黙の後、騎兵は鼻を鳴らすと李譲の首を刎ねた。
明け方、アリンは河城の城内を歩いていた。石畳が血でぬめる。歩いていて死体が目につかないことは無かった。
住民を殺傷する者あらば斬る。
住民より強奪する者あらば斬る。
住民を犯す者あらば斬る。
あまりにも易々とアリンの戒めは破られた。
「……これは俺の咎だ」
アリンは河城中央にある提督府に行った。そこには一人の男が捕らえられている。河城提督如冀。アリンは縄で縛られたその男の前に立った。
「会ったことがあるな」
如冀は顔を上げた。
「ええ。あなたが幼い時にお会いしました。あなたがスンジャタへ流れていく最中のことです。よく覚えていますよ」
「そうか」
「……一つ、お尋ねしたい。あなたの理想は何ですか」
「暗愚の皇帝アルハガルガを打倒し、この帝国全体に恵みをもたらすことだ」
「ははははははは!」
怜悧な提督はアリンを嗤う。
「あなたにはこの光景が見えているのですか。何が恵みです。片腹痛いですな」
「俺はお前に俺の傘下に入らないかと提案に来たのだが、どうもそれは叶わないらしい」
「分かり切ったことです。お聞きなさいますな」
如冀は項垂れる。彼の乱れた髪が顔を隠した。
「私はこれまでずっと皇帝陛下の命に忠実に仕事をしてきました。言われた事を分を越えず成し遂げる。それがわたしの本分なのだと。しかし、ただ一つだけ悔やむことがある。それは初めてあなたに会った時あなたを殺しておかなかったことです」
「ああ、悔やめ」
アリンは剣で如冀の首を落とした。
そして傍らにいるナシンに向かって言う。それは地獄の底から響いてくるような低い声だった。
「この惨状に関わった者全てを斬れ」
「しかし、アリン、数が多過ぎる」
「構わない。俺は既に斬ると布告した。ここでやった奴らはギン・ヘチェンでも同じ事をする。必ず斬らなければならない。住民から奪った財物を懐にしている者は全て斬れ。城内に入ってからの手柄話をしている人間は全て斬れ。例外は許さない」
また血が流れる。アリン軍に殺された住民と、斬首されたアリン軍の兵士の数は相半ばした。東方の要たる大都市をむせかえるほどの血と死臭が覆った。
アリンは歩く。河城の外へ。河城の外では河城軍との戦いで死んだ兵士達の死体が並べられており、一つの死体の側でアルタガナが泣いていた。ギョワンと相討ちになったハダの死体である。アリンは後ろからアルタガナを抱きすくめる。
「お父さんが、お父さんが」
「アルタガナ、俺は進むぞ。何があろうと俺は進む」
アリンはアルタガナを更に強く、抱き締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます