第22話 帰還

 その春には帝国北方のアザン・バリとの間にも和議が成立した。幾度帝国の長城を攻めようとも抜けず、自らも大冷害で飢えていくという状況に、若き酋長ジバツェリンがさすがに音を上げたのである。この和議は帝国側にとっても無論吉報で、北方に軍と糧食を集中させなくてもよくなった。帝国とアザン・バリとの間には長城を挟んだ貿易が成立することになる。即位以来波乱に満ちていたアルハガルガの治世における一時の晴れ間と言ってよかった。

 一方東北辺境ではアルハガルガの甥にあたるアリンがスンジャタ、アマルギにおいて着実に地歩を築きつつあった。スンジャタでは総督ナシンの友人にして結氷の戦いゲチェヘ・ダインの英雄として。アマルギでは英雄そして族長の娘アルタガナの夫として。

 それを紫衣の青年メイレンは半ばは満足しながら見ていた。途中までは自分の思い通り、いやそれ以上。しかし、懸念はアリンがそれ以上のことをしそうにないということだった。メイレンの望みとしては、アリンにそのままスンジャタとアマルギを掌握し、この東北辺境の地から大叛乱の火蓋を切ってほしい。しかしアリンにその素振りがない。メイレンは理解に苦しんだ。アリンの野望をかなえるためにはアルハガルガを武力討伐する他選択肢が無かろうに、それをしない。以前隙をついて皇帝を殺すと言っていたが、隙など無いし、第一どうやってギン・ヘチェンまで戻るというのか。

 そうこうしている内に二年が経ち、アリンの元に一通の召喚状が届く。それはメイレンにとっても、またアリンにとってもまさしく青天の霹靂だった。召喚状には次のようにあった。すなわち、一年後の春四月に皇帝陛下五十歳寿辰の祝宴が開かれる。その出席をアリンに許すと。それが帝国暦一六三九年五月のことだった。


「どうしても私は行ってはいけないの」

 十二月の払暁アリンが馬具を整えているとアルタガナが厩までやって来た。白く漂う息ごしにアリンは目で否と言う。

「お前と俺の結婚は内密のものだ。お前が一緒に来るわけにはいかない」

 項垂れるアルタガナの肩をアリンは叩いた。

「お前のことはナバタイに頼んである。二人で待っていろ。必ず帰ってくる」

「本当に本当?」

「ああ、必ず」

 アリンは二人の侍衛を連れてスンジャタから出発した。八年前彼が歩んだ旅路を逆に辿る旅が始まる。

 アリン達は海と東天山に挟まれた関所、天下第一関山海関を通って帝国本土へ入った。そこから北河下流域の要衝河城で補給し、一路西へ向かう。帝都ギン・ヘチェンに着いたのは帝国暦一六四〇年三月のことである。ギン・ヘチェンの城壁をくぐったその日、アリンは十九歳になった。

 アリンと侍衛は内城に設けられた国賓用の宿舎に入った。辺りは甚だ賑わっている。皇帝アルハガルガの祝宴前ということで帝国内外から賓客が集まっているというのもあるが、そもそもギン・ヘチェンは人が多い。東北辺境の街スンジャタとは大違いである。アリンが伴ってきた侍衛二人は久々の帝都に喜びを隠しきれない様子で、アリンはアリンで感慨が無いではなかった。幼い頃を過ごし、族滅の後に離れた帝都に再び舞い戻ってきたのだから。

 アリンは宿舎に荷物を置くと辺りを歩き回った。建物も市場もアリンの記憶からは少しずつ姿を変え、しかし昔の名残を漂わせてそこにある。アリンはふと思いついて内城中心の十字路を東に向かった。そして四半刻ばかり歩いた所でピタリと足を止める。目の前にあるのは廃墟。かつてはそれなりに立派であったであろう邸宅が四方破れ、草木が伸び切っていた。それはアリンが帝都で暮らした父ムドゥリの邸宅である。アリンはその最早昔日の面影も無い邸宅の前でしばし立ち尽くしていた。

 するといきなりアリンの横で白刃が閃いた。アリンは身を屈めて辛うじてそれをよける。よけたその体勢のままアリンは速やかに腰の曲刀を抜いた。アリンは誰何する。

「何者だ」

「お前は俺を知るまい。だが俺はお前を知っている」

 朗々たる声。アリンに切りかかって来た相手は髪を三つ編みにまとめ顔に入れ墨をした青年だった。帝国の風俗ではない。アリンは頭をめぐらせた。今回の祝宴には帝国内だけでなく外からも参席者がやってくる。そして近隣にいる集団でこの青年のような風体をした部族といえば。

「アザン・バリの人間か」

「いかにも、俺はアザン・バリが酋長ジバツェリン。お前は皇甥アリンと見た。違うか」

「相違ない」

 青年ジバツェリンは深く腰を落とし、再び彼の曲刀を構えた。

「父の仇とらせてもらう」

 そう、アリンは族滅前、十歳の時のアザン・バリ遠征でジバツェリンの父ジバの首を取っている。ジバツェリンはその日から彼の父の仇を探し続けていた。スンジャタに流されたと聞いていたが、この祝宴前にようやく会えた。それに対しアリンは半身を前にし、曲刀を下げて構える。

「やれるものならやってみるがいい」

 お互い息をつめた睨み合い。両者の気迫は互角。その時ムドゥリ邸の樹についている葉が一枚落ちた。二人の青年は足を踏み出す。

「やめないか‼」

 その刹那やや高い青年の声が二人を制止した。それは必殺の気迫を持った二人を不思議と押し止めた。二人が横を見るとそこに立っていたのは黒髪に巻き毛の青年だった。

「陛下の祝宴を血で汚すつもりか、わきまえろ」

 青年の言葉にジバツェリンは苛立たしげに鼻を鳴らすと曲刀を仕舞いその場から去って行った。アリンは制止してきた青年の姿に半ば呆然と立ち尽くす。青年はため息を一つつくと、アリンに向かって微笑んだ。

「もう、何やってるの、アリン」

「エルデム……」

 エルデムはアリンの肩をこつんと小突いた。

「やっと会えたね、元気だった?」

「ああ、そちらは」

 エルデムはにっこりした。

「私もまあいい方だよ。立ち話もなんだから私の家に行こう。この近くなんだ」

 確かにエルデムの邸宅は、そこからそう歩かない場所にあった。エルデムは十字街の市場へ行こうとして、たまたまアリンとジバツェリンの決闘に遭遇したのだという。エルデムはアリンを応接間に通した。アリンはこの部屋に見覚えがある。というよりも彼が幼い時にユエランとエルデムを訪ねた家そのままだった。

「陛下の家を私が受け継いだんだ。懐かしいでしょ」

 陛下という言葉にアリンは身体をぴくりとさせる。エルデムの父、皇帝アルハガルガはアリンの讐敵に他ならない。この家のことも懐かしいが、むしろ敵の胃の腑に入ったような感覚にさせられた。そのアリンの様子にエルデムも気付かないではない。

「アリン、今回の祝宴にアリンを呼ぶために動いたのはまず姉上、そして私だよ」

「やはりそうか」

「でもね、陛下も案外すんなりお許しになった。だから……」

 だから陛下はもうアリンのことを憎んではいないのだと、そうエルデムは言いかけてやめた。問題は皇帝がアリンを憎んでいるかというだけでなく、アリンが心中どう思っているかなのだから。そしてエルデムは敢えてそのことを問おうとは思わなかった。すでに部屋の中に人はいない。小間使いも含めて退がらせてある。秘密の話もできるはずなのにそれができなかった。それだけ九年の歳月は長かった。

 エルデムは自らアリンに茶を入れる。その時エルデムの右手が震えて茶器が床に落ち、高い音を立てて砕け散った。床に茶の水面が広がっていく。エルデムの右手はなおも震えている。

「エルデム、それは……」

 エルデムは左手で右手を押さえつつ目を伏せる。

「宿痾だよ。陛下と同じね」

 病。アルハガルガが歩くこともままならないということは宮中で密やかに伝えられていることではあったが、太子まで同じ病にかかっているという噂はさすがにスンジャタに届かなかった。アリンは震え続けるエルデムの右手をさらに自らの手でおさえた。

「どんな病だ」

「こういう風に身体が震えて、次第に動かなくなっていく。陛下も若い頃からこうだったけど、私は更に早かった。アザン・バリへの遠征の後から時々手が震えるようになった」

「命に障るか」

「さてどうだろう。いずれはそうなるかもしれないけど、陛下もあの年までご存命だから」

 右手の震えがようやく止まったので、エルデムは手を下げると小間使いを呼んで新しい茶器を持って来させた。今度はアリンが茶を入れる。エルデムはそれを申し訳なさそうに、しかし微笑みながら見ていた。

「そう言えば私にも子供ができたんだよ。後で顔を見てやってくれない?」

「喜んで」

「きっとこの祝宴で恩赦が降るから、そうしたらアリンにもいいお嫁さんを紹介するよ」

 アリンは手を止めてちらりとエルデムを見た。エルデムはおやという顔をする。

「どうしたの」

「実は結婚している」

 エルデムは驚いた。基本的に皇族の結婚は皇帝の許しが無ければすることができない。つまり、アリンはその禁を破っていることになる。

「誰にも言っちゃ駄目だよ、それ」

「分かっている。お前だから言った」

 エルデムは頷くと、茶を一口飲み、アリンの耳に口を寄せた。

「で、どんな?」

 それからは他愛のない話が続いた。太子と罪人という身分も身の上も関係の無い、十八歳と十九歳の男同士がするような話を延々とした。それは彼等が最も不足しているものの一つであったから。そして約束通り一歳になったばかりのエルデムの息子を見て、あまりにもエルデムにそっくりなので二人で笑い合った。


 夕刻、アリンが宿舎に戻ると、宿舎の主が青い顔をしてアリンに話しかけてきた。

「お客様です」

 庭で待っているというのでアリンは庭へと歩く。客といって心当たりがない。この身の上でなければ挨拶に来る官吏もいたであろうが、何分罪人には誰にも関わりたがらない。一体誰かと思って庭へ入ると、杏の樹の下に一人の麗人が立っていた。風は杏の花を零し、麗人の長い巻き毛の髪を揺らす。その光景は一幅の絵画のようだった。

「方々に無理を言ってここに来たのです」

 風に乗って彼女の声が聞こえてくる。

「ずっとあなたに会いたかったから」

 アリンは彼女の前に立った。もうアリンの背は彼女のそれよりも高い。九年前とは違う。彼女の頬を一筋の涙が伝う。

 彼女、ユエランはそのままアリンを見上げて微笑んだ。

「立派になられましたね、アリン」

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