五章 麒麟と斎王

一 瑞麟紋(ずいりんもん)

 あれから、わたしは州兵の手によって、州都・華雁里カガリの城に連れて行かれた。

 てっきり地下牢のような場所に入れられるのかと思っていたのに、わたしたちに与えられたのは、城の離れの一棟だった。

 華雁里のお城はさすが州都の中心なだけあって、とても華やかでまばゆい場所だった。

 わたしたちの世話を命じられたという女性も美しく、まるで天女のよう。

 しかし今のわたしにとって、そんなことはどうでもいいことだった。

 白雲が隣にいてくれるのなら、わたしは寝る場所が厩でもどこでも構わなかった……。


 白雲は、わたしの隣でまだ目を覚まさずにいる。

 あのあと、白雲は再び人の姿に戻ったけれど、意識は失ったままだ。

 左手の小指に巻かれた契り糸も、まだわずかに黒く染まっている。

 眠る白雲の傍らで、わたしは彼の髪にそっと指を通し、額に触れ、両手を包み込むようにして、祈りを捧げた。


 お願い。どうか、あなたの中に残った穢れが、すべて消え去ってくれますように……。


 祈るたび、わたしの中の何かが応えるように、小さな光が掌からこぼれた。

 光が契り糸に触れると、その色がゆっくりと黒から赤へと戻っていくのが見える。

 わたしはその色がまた元の赤色に戻ることを信じて、白雲のために祈りを捧げ続けた。


 そして三日目の朝……。

 城の窓からこぼれる淡い朝日が、白雲の頬を照らしている。


「おはよう……白雲……」


 そう言って、わたしはいつものように左手で白雲の額を撫でようとする。

 その時だった。糸が……契り糸の色が、綺麗な赤に染まっていたのだ!


「あっ……!」


 わたしの瞳から涙がこぼれかけた時……


「……ほの……か……?」


 わたしを呼ぶ、白雲の声が聞こえた。


「白雲……!」


 わたしはその名を呼びながら、白雲の胸に顔をうずめる。

 ぬくもりがある。鼓動が聞こえる。息がある。生きている――


「白雲……白雲……!!」


 何度も名前を呼ぶわたしに、彼は弱々しく笑みを浮かべて、囁いた。


「……ごめんよ、穂乃花……また君に……心配を……かけてしまった、ね……」

「いいの、いのよ……。あなたが、無事でいてくれるのなら……それで……」


 その胸に抱かれながら、わたしはただ、涙を流した。


 どんなに豪華な布団も、どんなに美しい部屋も要らない。

 子供の頃から変わらない。この人のぬくもりが、わたしの居場所。


「白雲……本当に、よかった……」


 ようやく取り戻せたこの穏やかな場所を、どうか誰にも壊さないで……そんな願いが宿った涙が、頬を伝って流れていく。

 そのときだった。廊下の向こうから、何人もの足音がバタバタとこちらへ近づいてくる音がした。

 それと同時に、誰かの焦ったような叫び声も聞こえてくる。


「お待ちください!  陛下!! 稲波いねなみ様!!」

「ええい、離しなさい!  待ってなどいられますか!」


 稲波!?

 それはたしか、瑞穂の国の女王陛下のお名前だ。

 もしかしたら、華雁里の街を破壊した白雲を、女王陛下が自ら罰しに来たのかもしれない。

 白雲と引き離されることを想像し、わたしの体がかすかに震える。

 扉の前で立ち止まった足音のあと、障子が勢いよく開かれた。


「穂乃花!」

「白雲!!」


 わたしと白雲は、とっさにお互いを守り合うかのように抱き締め合っていた。

 もう二度と、白雲の隣から離れない。

 そう決意した瞳で、わたしは現れた人を見上げる。


 現れたのは、立派な装束に身を包んだ、気品と迫力を併せ持った初老の女性だった。

 この方が瑞穂国の女王・稲波様……。

 稲波様は目を見開いて、まっすぐこちらを見つめている。

 その人を見た瞬間、わたしの胸に奇妙な感覚が走った。


「……か、母さん……?」


 わたしが思わずそう呟くと、女性の方も目を見開いたまま立ち尽くしていた。


「……みず、き……瑞樹……?」


 その名を聞いた瞬間、わたしは動けなくなった。

 今、たしかにこの人は、母さんの名前を呼んだ――。


「どうして……どうして陛下が母の名をご存じなのですか……?」


 わたしは白雲の腕をそっと離れ、畳に手をついて尋ねた。震える声が、自分でもわかるほど不安げだった。

 陛下はわたしの前にゆっくり膝をつき、両手でそっとわたしの頬を包んだ。

 母さんに似たその瞳に、じわじわと涙が溜まっていく。


「この髪、この瞳、この声……瑞樹に瓜二つ……。ああ……やはりあなたは……間違いない……」

「ま、間違いない……って……?」


 戸惑うわたしを抱き締めて、陛下が喜びに満ちた声で言った。


「瑞樹は、私の娘。そしてあなたは私の孫なのよ、穂乃花……」

「わ、わたしが女王陛下の……!?」

 

 母さんが、女王様の娘。そしてわたしは孫? それはどういうことなの?

 理解が追いつかなくて、胸が苦しくなる。


「詳しいことは、あとでゆっくり話しましょう。

 でも今は穂乃花……あなたのことを、抱き締めさせて……」

「は、はい……」


 優しく回されたその腕に、わたしは身を預ける。

 わたしが女王陛下の孫だなんて、にわかに信じられる話ではない。

 でもこの方の腕からは、母さんと同じ温もりが感じられた……。


 そうしてわたしが稲波様に抱かれていると、とん、とん、とん……と柔らかい足音がこの部屋に近付いてくるのが聞こえてきた。

 控えめながらもはっきりと近づいてくる気配に振り向くと、そこには稲波様に似た顔立ちを持つ、壮年の男性が立っていた。

 豊かな黒髪には白い筋がいくつか混じり、紺青の衣に身を包んだその人は、どこか威厳を感じさせる佇まいをしていたが、その目に宿る色は、どこか懐かしく思える。

 男性が、目を丸くさせて言う。


「……これは……たしかに瑞樹にそっくりだ。母上が驚くのも仕方がない」

「……あの、あなたは……?」


 思わず問いかけると、その背後から現れた稲波様が答えた。


「この子は、瑞浪みずなみ。瑞樹の兄よ」

「瑞浪だ。君にとっては伯父にあたる」

「伯父……様……?」


 言葉が、うまく喉を通らない。

 祖母だと名乗る人に会ったばかりなのに、今度は伯父まで現れるなんて――。  

 わたしはもう、天涯孤独の身の上だと思っていたのに……。

 頭がくらくらする。  あまりにも突然すぎて、現実が飲み込めない。

 気づけば、わたしはぽつりと口を開いていた。


「あの……本当に、わたしは……あなた方の縁者なのですか?」


 視線を落として、手のひらをぎゅっと握り締める。


「自分が……王族だなんて、どうしても信じられません。

 わたしなんかが、そんな……人違いではないでしょうか……」


 そうよ。片田舎の楠美で育ったわたしがこの国の女王の孫娘だなんて、何かの間違いに決まっている。

 けれど稲波様は、そっと首を振った。


「それは無いわ。あなたは、若い頃の瑞樹にそっくりだもの。

 あの頃の瑞樹を知っている者なら、皆あなたを瑞樹の娘であることを疑わないはずよ」


 その言葉に、瑞浪様も静かに頷いた。


「それに、君が柱神……白雲殿だったか。彼を荒御霊の姿から戻した力。

 あれは、瑞穂王族にしか持ち得ないものだ」

「……え?」


 あれが瑞穂王族の力?

 瑞浪様が王族の力について、詳しく話してくれる。


「柱神がこの地に住まう御霊の穢れを清める力を持つように、瑞穂王族は神の身に宿った穢れを清める力を持つ。

 それは人々の信仰や、契り糸で結ばれた伴侶が捧げる以上の力だ。

 瑞穂王族の祈りは、荒御霊と化した柱神を元に戻せる力があるんだよ。

 瑞樹は十五の時に、信仰が失われつつある地の柱神の穢れを清める旅に出たんだ。

 それが神と人を繋ぐ瑞穂王族の務めだと言って……」 

「そ、そうなのですか……でも、やはりわたしは……」


 そう言われても、わたしはまだ稲波様たちの言葉が信じきれない。  

 すると稲波様がすっと着物の襟を少しだけ開き、胸元を見せてくれる。

 そこには、麒麟の姿を象ったような痣があった。


「穂乃花。あなたの胸元に、これと同じ痣はないかしら?」

「……っ!」


 稲波様の胸元にある痣を見て、わたしは思わず息を呑む。

 その痣が、わたしの胸にあるものと同じ形をしていたからだ。


「あ、あります……! 十八になった日に、ぼんやりとこれが現れて……!!」


 わたしの言葉に、稲波様の瞳がやわらかく細められる。


「そう……なら、あなたは間違いなく瑞穂王族の血を引く者よ。

 この痣の名は『瑞麟紋ずいりんもん』。瑞穂王族の血を引く者が十八になると現れる、王族の証なの」

「瑞麟……紋……」


 あの日……。郷長の屋敷で、八葉様にこの身を焼かれたあの日に、胸に浮かんでいたあの不思議な痣。

 ただの火傷の跡かと思っていたものが、まさか自分の出生の証になるなんて……。

 その事実に、わたしの目にじわりと涙が浮かんでくる。


「ほ、穂乃花!? どうしたの?」


 稲波様が、涙を流しかけるわたしを見て、慌てた様子で声をかけてくる。

 母さんに似た、その顔で……。

 わたしは小さく微笑んで、稲波様に言う。


「いえ……ただ、嬉しかっただけです。

 わたしにお祖母様がいたことが……分かって……」

「穂乃花……!」


 稲波様の目を真っ直ぐ見つめ、わたしは「お祖母様」と呼んだ。

 お祖母様の頬が、明るい色に染まっていく。

 それを見ていた伯父様の目にも穏やかな色が浮かんだけれど、すぐに神妙な面持ちに変わり、わたしに尋ねてきた。


「では穂乃花。今度は君が教えてくれないか? 瑞樹がどうしているのか……。

 旅に出てから二年後。瑞樹は突然消息を経った。

 それ以来、我らは瑞樹を探し続けていたが、見つけ出すことはできなかったんだよ……」


 そうか……お祖母様も伯父様も、母さんのことを心配してくれていたのね。

 そんな二人に、母さんの身に起きたことを話していいものかと、わたしは一瞬躊躇う。

 すると白雲の手が、わたしの肩に置かれた。


「穂乃花。君が話すのが辛いのなら、私が……」

「……ありがとう、白雲。でも、大丈夫よ……」


 わたしのことを気遣ってくれる白雲の優しさが嬉しい。

 でも、これはわたしの家族のことだから……。わたしの口から、伝えなければならないのだ。

 わたしは意を決して、お祖母様と伯父様に母さんのことを話す。


「母さんは、楠美の山の中で事故に遭い、その時に自分の名前以外のものすべてを忘れてしまったようなんです……。

 そんな母さんを助け、支えてたのが楠美の郷長の屋敷で厩番をしていた父さんでした。

 二人はそのまま夫婦になって、母さんはわたしを身籠ったのですが、父さんはわたしが生まれる前に亡くなって……。母さんも、わたしが八つの時に亡くなりました……」

「そう……なのね……」

「覚悟はしていたが……」

 

 お祖母様と伯父様が悲しげに顔を伏せる。

 でもお祖母様はすぐに顔を上げ、わたしに言ってくれた。


「そういうことなら、穂乃花も苦労したでしょう」

「そうだな。父も亡くし、母も亡くしてひとりだったのだから」

「は、はい……苦労はしました。でも、寂しくはありませんでした……」


 わたしは白雲の手に自分の手を重ねて言う。


「わたしにはましろが……柱神になる前の白雲がいたから……!」

「穂乃花……」


 わたしは白雲と見つめ合い、お祖母様たちに白雲が楠美の柱神になった経緯を話す。


「白雲は本来は、ましろという名の一頭の白馬でした。

 でも、生贄に捧げられるましろを見て深く哀しんだ楠美の本来の柱神である白麟はくりん様から力を与えられ、柱神となったのです。

 柱神になった後、白雲はわたしが住む楠美のためにその身を粉にして働いてくれました。

 白雲が荒御霊となったのも、連れ攫われたわたしを救うため。

 だからどうか……白雲に罰を与えるというのなら、わたしにも同じ罰をお与えください……」


 わたしはお祖母様と伯父様に向けて、深く頭を下げる。

 城の人たちの話を聞いた限り、幸い荒御霊と化した白雲の暴走による死者は出なかったようだけど、それでも州都のあちこちは大きく破壊されている。

 お祖母様が白雲に、罰を与えるのと考えた方が自然だ。

 それならわたしも罰を受けるべきた。

 白雲はわたしを思って、荒御霊になったのだから……。

 すると、お祖母様と伯父様がわたしを安心させるように微笑みを向けた。


「白雲殿に、罰を与えるつもりはないよ」


 伯父様――瑞浪様は、静かにそう告げた。

 その言葉が信じられなくて、わたしは思わず顔を上げた。


 「それどころか――」


 お祖母様が、穏やかな口調で続ける。


 「あなたが売られたという楼閣……州都の遊郭には、すでに柳炎家の兵と役人を遣わしているの。

 楼主への取り調べも進んでいて、誰の指示であなたが売られたのかも明らかになったわ」

 「誰の……」


 わたしがそう問いかける前に、答えは返ってきた。


 「罰せられるのは、あなたを陥れた郷長の娘。身勝手な嫉妬心で、柱神の花嫁を売り飛ばすなど、言語道断。

 郷長自身も、調べれば調べるほど埃が出てきた男のようね。奉公人たちからも不満が噴き出しているそうよ。

 役人の問いに、皆こぞって応じているとか」


 ぽかんと口を開けたまま、わたしは返す言葉を失っていた。

 白雲様を庇ってもらえるだけでもありがたいことなのに、事の子細を正確に調べてもらえたなんて……。

 喜びと、祖母と伯父の為政者としての正しい姿に、わたしは感服するしかできない。


 「白雲殿が荒御霊と化したのは、人の愚かさゆえ」


 伯父様が言う。


 「それを咎めるのは、むしろ人の道に反する。君は穂乃花を守ろうとしただけなのだから」


 その言葉を聞いた瞬間、白雲様の手がそっとわたしの手を握った。

 熱くて、あたたかくて……この手の中に、いままで抱えてきた不安が溶けていくようだった。


 「……よかった」


 白雲様が、安堵の笑みを浮かべて言う。


 「これで、無事に祝言が挙げられそうだね。鈴芽も無事だったよ。今頃、心配しているだろうけど……」


 わたしも思わず笑みをこぼす。


 「……ええ、早く楠美に帰らなきゃ」


 そう話しながら顔を見合わせた私たちに、伯父様とお祖母様が目を伏せたまま、難しげな表情で言葉を交わす。


 「……そのことなのだが」

 「あなたたちには、まず――神都・豊葦原とよあしはらに来てほしいの。

 そこであなたたちを……待っている方がおられるのよ」


 「……わたしたちを?」


 思いも寄らぬ申し出に、わたしも白雲様も首を傾げる。

 でも、お祖母様の言葉は、とても静かで、でもどこか切実で。

 わたしたちはただ、うなずくしかなかった。

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