四章 神馬の花嫁
一 招かれざる者
楠美の山あいにも、ようやく春の気配が届き始めていた。
わたしたちは、久しぶりに現し世に出て、山の中腹にある小さな桜の木を見にきていた。
その枝先には、まだ硬いつぼみが、ほんの少しだけ色を帯びている。
「見て、白雲。桜が芽吹き始めているわ」
風にそよぐ枝を見上げながら、わたしは隣にいる彼にそう言った。
わたしの声に応えるように、白雲もやわらかく目を細める。
「ああ……この桜が花開いたら君との祝言だね。楽しみだよ」
桜の花なら、幽世にある白雲の館で一年中見ることができる。
でも、現し世の桜は特別な桜。
だってこの桜が咲いた時、わたしは白雲の花嫁になるのだから……。
白雲の言葉に、わたしの胸がふわりと温かくなる。
あの日――白雲がましろだったことを知り、想いを伝えたあの日から、わたしは彼のことを「白雲」と、名前だけで呼ぶようになっていた。
話し方も、ましろと一緒にいた頃のように自然なものになっている。
もちろん最初は少し迷った。
どんなに姿形が変わっても、彼の魂はましろと同じもの。
二人きりのときだけでも「ましろ」と呼んだ方がいいのではないかしら……と。
けれど、白雲はわたしにこう言ってくれた。
「この名は、白麟様にいただいた大切な名前なんだ。
白麟様に代わって楠美の地を守護している以上、私はこの名を使い続けたい」
その言葉を聞いて、わたしは決めた。
ましろの名を胸に抱きながら、わたしもこれからは彼の名を「白雲」と呼び続けようと。
ずっと憧れていた相手の名前を、ためらいなく呼ぶのは、少しだけ照れくさい。
けれど今は――この呼び方が、いちばん自然に思えている。
白雲と契りを交わしてからの日々は、穏やかで、優しさに満ちていた。
わたしたちが真実の契りを交わしたことを館の人々に伝えると、誰もが心から祝福してくれた。
ただの村娘にすぎないわたしが、楠美の柱神である白雲の花嫁になるなど、受け入れてもらえないのではないかと、実は少しだけ不安に思っていたのだ。
けれど、その心配はまったくの杞憂だった。
「穂乃花様、祝言の花嫁衣装は任せてくださいませ! 幽世でいちばん美しい衣を仕立ててみせます!」
張り切った鈴芽さんは、祝言の準備に朝から晩まで奔走していた。
館の者たちも皆、わたしたちのために動いてくれている。
誰ひとり、わたしの出自を咎めるような者はいなかった。
ありがたいことだと、心の底から思う。
この館に迎えてもらい、あたたかく接してくれた人たちに、何かひとつでも恩返しがしたい。
そのためにも、白雲の隣に立つ者として、恥ずかしくない花嫁にならなければと心を引き締めた。
館の空気は、どこか華やぎを帯びていた。
けれど白雲だけは、いつもと変わらぬ穏やかさをまとっていた。
朝になれば、わたしとふたりで庭を歩く。
四季の花々が交じり合う幽世の庭は、いつも色とりどりの四季の景色を楽しむことができる。
「まあ……紅葉が美しく色づいているわ」
「うん。でも穂乃花。君の頬も、紅葉に負けないぐらい紅く染まってるよ」
ふいにそんなことを言われて、思わず顔を背けた。
白雲はいつでもそうやって、わたしの気持ちをふわりと包んでくれる。
庭の散策のあと、白雲は白浄殿へ向かう。
わたしはその日によって館の手伝いをしたり、祝言の用意に呼ばれたりするけれど、心はいつだって白雲の隣にあった。
白雲は白浄殿で、穢れを払っている。
楠美の地に生きる人々や御霊たちの幸福を願いながら、静かに、けれど力強く祈りを捧げている。
そんな姿を見るたび、わたしはこの方を選んでよかったと思う。
そして夕刻。
わたしは白浄殿へ赴き、白雲の手を取って、わたし自身の祈りを重ねる。
白雲の体に一日で溜まった穢れを、花嫁であるわたしが祓う。
最初は緊張で震えていた手も、いまでは自然に彼の掌に重ねられるようになった。
「穂乃花の祈りは……不思議なくらい、あたたかいね」
「白雲のことを想ってるからよ。当たり前じゃない」
ふたりの手が合わさるたび、心がひとつになっていくのを感じた。
そのあと、わたしたちは銀雪殿に戻って夕餉を共にする。
日が落ちる頃には、白雲がわたしを紅夏殿の部屋まで送り届けてくれるのが日課になっていた。
「祝言を挙げたら、君の住まいも銀雪殿に移ることになる。
でもそれまでは……清い関係でいよう……」
そう言って、白雲はわたしの手を静かに握る。
その手のひらが、わたしを守るように包んでくれる。
「ええ……白雲……」
白雲がわたしの額に、自分の額をそっと当てていたのは、ついこのあいだまでのことだった。一日の終わりの挨拶のように、それは習慣になっていた。
けれど、今は違う。
今は――わたしたちは、唇を重ねるようになった。
最初の夜は、息が詰まるほどに緊張して、目を開けていられなかった。
けれど白雲は、そっとわたしを見守りながら、穏やかに口づけてくれた。
それからは、毎晩の終わりの挨拶が、額合わせから口づけへと変わった。
白雲の唇のぬくもりが残るまま布団に入るのが、わたしの日常になっていた。
そうしてわたしと白雲は、楠美の山を散策しながら、春が訪れていることを確かめる。
すると日はいつのまにか山の端へと傾き、桜のつぼみを照らす陽光も、夕暮れの紅に染まり始めている。
「そろそろ帰ろうか」
白雲が隣で、柔らかく言う。
わたしはうなずきかけて――ふと、思い出したように顔を上げた。
「白雲。わたし、婚姻の前に一度、現し世のお社をお掃除しておきたいです。
ちゃんと整えてから、お嫁さんになりたいから……」
白雲は少し驚いたように目を細め、それからやわらかく笑った。
「君らしいね。なら三日後にまた来よう。今度は掃除道具も忘れずに持ってこなきゃ」
「はい……!」
そう返すと、白雲はわたしの肩をそっと抱き寄せた。
そのまま、わたしたちは幽世への還り道を辿る。
楠美の森が夜の気配を纏いはじめる中、彼の体温がわたしの背に優しく添っていた。
けれど――その時だった。
背後から、ぴり、と肌を刺すような視線を感じた。
(……え?)
わたしは足を止め、振り返る。
だがそこには、風に揺れる梢と沈む陽だけがあった。
「どうしたの?」と白雲が言う。
「いえ……なんでもないわ」
気のせいよ。そう自分に言い聞かせるように微笑み、わたしは白雲の腕に身を委ね、幽世へと続く道へ向かっていった……。
※※※※
その視線の主――それは、八葉だった。
白雲と穂乃花が去ったあと、ひとり山の木陰に潜んでいた八葉は、じっとその姿を見つめていた。
冬の終わり、山に入り、のたれ死んだ穂乃花の骸でも見つけて笑ってやろうと訪れたのだ。
だがそこで見たのは――
「はぁ? ……なに、あれ……」
春色の陽を受けて輝くような衣を纏い、美しい青年に花のように慈しまれていたのは、確かに穂乃花だった。
しかも、その青年はただ者ではない。気配からして、あれは……楠美の柱神。
「なんなのよ、あれ……ズルい! ズルいズルいズルい!!」
八葉の爪が、着物の袖をぎゅっと握り締めた。
自分が嫁ぐことになっている柳炎家の若殿は、あんな男じゃない。
見た目も普通で、しかも自分は正室ではなく、ただの側室。
楠美の郷長の娘である自分はこんなに不幸な結婚をしようとしているのに、それなのに、なんで、なんで……!!
「余所者のくせに……! なんで穂乃花なんかが柱神に嫁ごうとしてるのよ……!」
怒りと嫉妬が、八葉の胸を燃やし尽くしていく。
胸の奥が焼けるようで、吐き気すら覚える。
彼女は、口の端をぎゅっと歪めて、まるで呪詛のように何度も繰り返す。
「許せない……許せない……絶対に、許さない……!」
けれど、燃え上がるような激情の中で――八葉の脳裏に、ふとある考えが浮かぶ。
「……ふふ。いいこと思いついちゃった」
ふわりと笑うその顔は、誰の目にも美しいとは言えなかった。
歪み、ゆがみ、欲望と嫉妬に蝕まれたその表情は、もはや人としての美を失いつつあった……。
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