三 白雲の館

 鈴芽さんに案内され、わたしは屋敷の廊下をゆっくりと歩いていく。

 屋敷の中は敷居も畳も磨かれていて、裸足で歩いても冷たさを感じないほど、木の温もりに包まれていた

 開け放たれた障子の向こうには、美しい庭が広がっている。

 そこには、見たことのないような光景が広がっていた。


「きれい……」


 思わず足を止め、わたしは庭に見入ってしまった。

 庭には満開の桜が咲き、すぐ隣では夏の野に咲く百合が花開いている。

 さらに奥には、秋の紅葉が風に揺れて色づき、そしてその奥には冬の雪がしんしんと降り積もっていた。

 雪は枝に積もりながらも、花々を凍らせることはないようで、どの草木もいきいきと色づいている。

 それはまるで、季節という概念が一か所に同居しているかのような、不思議な光景だった。


「……ここは、いったい……。今は冬なのに、どうして桜が咲いているんですか……?」


 わたしの疑問に、鈴芽さんはにこりと笑って答えた。


「ふふ……驚かれましたか? ここは幽世――人の理から外れた、神々の住まう特別な場所になります。

 神の力に満ちたこの世界では、季節に関係なく花は芽吹き、天は雪を降らせて神々の目を楽しませるのですよ。

 そして白雲様の御所になるこの館には、五つの棟がございます。

 東西南北にそれぞれひとつの計四つ。そして中央にひとつ。

 今私たちがおりますのは、南の棟である『紅夏殿こうかでん』。

 白雲様はあちらにあります『白浄殿はくじょうでん』で、楠美の山に棲まう生き物や植物たちの御霊に積もった穢れを祓い清めておられる最中です」

「穢れ……?」

「ええ。人の営みや、争い、欲望――それらは少しずつ、柱神が守護する土地に染みていきます。

 それらの穢れを受け止めて、再び大地に還る命が安らかであるよう、日々お力を尽くすのが柱神の役目なのです」

「そうなの……ですね……」


 その言葉を聞いて、わたしは白雲様のお顔を思い出した。

 月よりも綺麗に流れる銀の髪に、雪のように真っ白で、きめ細かい肌

 あの美しい人が楠美の地に宿る穢れを清める力があるというのは、想像するに易かった。


 それに白雲様はお優しい。行き場のないわたしを助けてくれて、こんな上等の着物まで用意してくれた。

 そんな白雲様なら、楠美の山でさ迷う御霊の穢れも、優しく包み込んでくれるだろう……。

 そこには確かに、死や腐敗の気配がない。


「すごいお方なのですね、白雲様は……」


 思わず呟くと、鈴芽さんは微笑みながらわたしに言う。


「そのお言葉。白雲様が聞かれたら大層お喜びになられますわ。

 ここから先は白浄殿となります。

 先程のお言葉を、ぜひ白雲様にお聞かせください」

「えっ、は……はい……」


 し、白雲様に「すごい」と伝えるなんて、恥ずかしいわ……。

 わたしはそう思ったけれど、鈴芽さんの笑顔の前に断ることもできず、躊躇いながらわたしは頷く。


 その時ふと、風に乗って、どこかから芳しい香りが漂ってきた。

 それは春でも夏でもない、どこか懐かしい香りだった。


 わたしは胸の奥がきゅうっとなるのを感じながら、鈴芽さんの背中を追い、白雲様がおられる白浄殿へと足を踏み入れた……。


※※※※


 白浄殿の扉は、鈴芽さんの指先によってそっと押し開かれた。 

 中からは、ほんのりとした白い霧のような光が流れ出してきている。

 それは外の空気とはまるで異なり、ひやりとしながらも、胸の奥に静かに沁み入るような、不思議な冷たさを帯びていた。


「さあ、こちらへ」


 鈴芽さんに促されて、一歩、また一歩と廊下を歩いていく。

 殿内は広く、天井が高く、柱には白木の文様が彫り込まれていた。壁も天井も清浄そのもので、まるで雲の中を歩いているかのような錯覚に陥る。


 そして、殿の奥――白く霞んだ光の中に、そのひとの姿はあった。


「あ……」


 思わず、声がこぼれる。

 白雲様だ。


 白い霧に包まれるようにして、殿の中央に佇むそのお姿は、まるでこの世のものとは思えないぐらい幻想的だった。

 肩から羽織った装束は雪のように純白で、細やかな文様が淡く金で織り込まれている。

 その背には光の羽があるかのような残像が差し、銀の長い髪は光に透けるように揺れていた。


 白雲さまは、目を閉じたまま両の手を胸の前で重ね、静かに口元で祈りの言葉を紡いでいた。

 その周囲には、ぼんやりと浮かび上がる無数の蛍のような小さな光が浮かんでいる。

 もしかしてあの光が、楠美の地に存在する御霊たちなのかしら……。


 風に舞うように、光は白雲様のもとへと集まり、手のひらの間に吸い込まれるたびに、淡く輝き、そして消えていく。


「……御霊の穢れを、拭い浄めておられるのです」


 鈴芽さんが小さな声でそう囁いたけれど、わたしは返事もできなかった。

 ただ、目の前の光景に釘づけになっていた。


 それはあまりにも神々しく、そして美しい光景だった。


 誰もが汚れを抱えて死んでいくこの世で、最後の最後にこんなにも優しい手に触れられて、大地へ還っていける御霊たちは、なんて幸せなんだろう。

 白雲様の手が心を撫でるように動くたび、空気の重さが少しずつ軽くなっていく気がした。


 あの人は、本当に神様なのだ。


 わたしは手を胸に当て、熱を帯びた頬を少しだけ冷ました。

 けれど胸の奥の高鳴りは、静まるどころかますます強くなっていく。


 どうしよう……今、白雲様に話しかけられても、まともに顔を見ることもできないわ。


 そう思った刹那。

 白雲様の瞼が、そっと開かれた。

 ゆっくりとこちらを振り返ると、その月のような瞳が、まっすぐにわたしを見つめる。


「あっ……」


 白雲様と視線が合った瞬間。その美しさに、わたしの口から小さな声がこぼれた。

 美しいといっても、それは姿形だけの話ではない。

 白雲様の全身から溢れる清らかな空気のようなものが、白雲様を美しく彩っているのだ。

 胸の高鳴りがこぼれ落ちたような声を出してしまった恥ずかしさのあまり、わたしは顔が熱くなるのを感じる。


 この美しいひとの前で恥ずかしい姿を晒してしまったという緊張から、体が強張る。

 しかしその緊張も、長くは続かなかった。


「穂乃花……! 目覚めたんだね……!!」


 月の化身のようだった白雲様が、とたんに子供のように顔を綻ばせ、わたしの名を呼んだからだ。

 その笑顔で、わたしの体から緊張は抜けていったけれど、今度は先程以上の胸の高鳴りを感じる。

 白雲様は微笑みながら早足で、わたしの方へ向かってくる。


「良かった、穂乃花。もう歩いて大丈夫なようだね。

 着物も着てくれてありがとう。

 よく似合っているよ。私の見立て通りだ」

「は、はい。わたしの方こそ、何から何までありがとう……ございます……」


 白雲様はわたしの前に立つと楽しげな様子でそう言ってくれた。

 お礼を言わなければならないのはわたしの方なのに、逆に着物を着たことへの礼を言われてしまった。


 こんなふうに誰かに感謝されるのは、いったい何年ぶりかしら……。


 頭を下げながら、わたしは胸にあたたかいものを感じる。

 そうしていると、頭上で鈴芽さんの声が聞こえてきた。


「はいはい、白雲様。

 嬉しいのは分かりますが、穂乃花様はまだ病み上がりなのです。

 あまり立ち話をさせてはいけません。

 早く銀雪殿ぎんせつでんに案内をしてあげてください」


 少し厳しい鈴芽さんの言葉に、白雲様が苦笑いを浮かべて答える。


「そうだったね。

 鈴芽。ここからは私が穂乃花を案内するから、君は食事を用意してくれ」

「畏まりました」


 鈴芽さんはそう言って一礼すると、わたしたちの前から静かに立ち去っていく。

 その後ろ姿を見送って、白雲様がわたしの腰に腕を回して言う。


「穂乃花はこっちへ来てくれ。少し話をしよう」

「は、はい……」


 腰に回された白雲様の腕の感覚に、わたしの鼓動はまた早くなる。

 白雲様の腕からは、まだ起き上がったばかりのわたしが疲れて転ばぬようにという優しさと逞しさが感じられた。

 

 わたしは今、白雲様に守られている……。


 一瞬わたしは、そんなことを考えてしまった。

 楠美の地をお守りする柱神様に対して、なんと畏れ多いことを考えてしまったのだろう。

 ひとりでも歩けると、白雲様に伝えなくてはならない。けれど……白雲様の温もりと頼もしさに不思議な懐かしさを感じてしまって……。

 わたしはそれを伝えられず、白雲様に体を預けたまま、銀雪殿と呼ばれた北の棟へ歩くことしかできなかった……。

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