#4 不抜 VS ドラゴン 前編

「この本を買ってからもう一年か……。答えを見つけられた感じは、しないな……」


 夏休みに突入した八月上旬。

 目的地の古本屋近くのコンビニでアイスコーヒーを飲みながら、一冊の文庫本を手に俺は呟く。

 影のある軒下で小休憩のつもりだったのだが、想像以上の酷暑もあり体力回復どころか消費しているような錯覚を抱いてしまう。


「っていうか、錯覚じゃないよな、これ。いくらなんでも暑すぎる……」


 古本屋はもうすぐ近くなのだが、そこまで行くのがもう辛い。

 視線の先に浮かぶのが、アスファルトの陽炎なのか、単純に意識が朦朧としているかの違いすら分からない気すらする。


「とはいえ、店舗はもうちょっとだし頑張ってたどり着かないと――!」


 そう自分に言い聞かせた時、背後から、


「頑張るって、どこ行くの?」


 という声が響き、俺は文字通り、「うわっ!?」と飛び上がる。

 俺と同じく汗をかくアイスコーヒー片手に立っていたのは、白いノースリーブと青のショートパンツ姿の片瀬だ。

 口調はいつものように雪が降り積もるかのような静けさを湛えているが、対照的に頬や腕は太陽の熱を受けてわずかに赤い。


「……? 落としたよ、なんか」


 やがて片瀬は何事もなかったかのように俺が取り落とした文庫本を拾う。

 そして顔をこくん、と傾げ、首の半ばまで伸びた髪の先が揺れた。


「読んでたの? 外で」

「い、いや」


 突然の登場に俺は驚きを感じつつ、一つ息を吐く。

 『トリリ』……アプリゲームの『トリリオン・マテリアルズ』を仲間内でやっているから、ゲーム内でメッセージのやり取りはあるのだが、リアルでいきなり声をかけられるとやはりびっくりしてしまう。

 俺は一口、アイスコーヒーを飲んで落ち着いた後、答えた。


「その本は持ってきただけ。……一ページ目を読んでみてくれるか?」

「え、うん」


 片瀬はゆっくりとした動作でアイスコーヒーをいったん地面に置き、本を開く。

 ふわり、とシトラスの香水を漂わせた後、そこにあった光景に、目を丸くした。


「『あなたの人生が幸せなものでありますように』? ……これ、肉筆だよね」

「ああ、一ページ目の余白に書かれてるな。とはいえ、俺は一年前に古本屋で買ったんだけど、この本」

「……? あ」


 俺の言葉でこの本の辿った運命に気づいたらしい片瀬は、目線を寂し気に落とす。

 この暑さの中にあって、その瞳に宿った感情は冷たい。

 俺は頬を少し掻いた後、話を続けた。


「そんな顔するなって。本来の持ち主は売っちゃったみたいだけど、もともと欲しかった本だし」

「んー……、じゃあ大事にしてるんだ、史也は?」

「ああ、そのメッセージもあって。一年ていどじゃ幸せの意味なんて分からないけど」

「本の内容は?」


 片瀬から本を受け取りつつ、俺は答えた。


「普通の話だよ。普通に男女が出会って、普通に恋愛をして、普通に幸せになる物語。……送り手が何を願っていたのかは、もう分からないけど」

「……そうだね。でも」

「?」


 俺の言葉に片瀬は少し頬を緩め、暖かな声音で告げる。


「よかったってことにしておこうよ。少なくとも今、史也が大事にしてくれてるならその本は幸せだろうし」

「……そ、そうだな」


 まっすぐ目を見て言われたため、俺は言葉尻を濁し、視線を逸らすことしかできない。

 そうしている間に片瀬は地面に置いてあったアイスコーヒーを拾い上げ、一口飲んで、息を吐く。

 何度かそれを繰り返しているだけなのだが、妙に時間の流れがゆっくりになっていくような感覚を覚え、俺は改めて目的地である古本屋へ目を向けた。


「ま、まあ、そういうわけもあって古本が欲しいなーって」

「すぐそこにあるチェーン店?」

「そ。買ったのもあそこだし」

「じゃ、私も行っていい?」

「え?」


 想像していなかった提案に俺は文庫本を胸ポケットに入れながらまた、驚く。

 そのリアクションが面白かったのか、片瀬は「くすっ」と笑った。


「散歩してただけだし。そっちの方が面白そう」

「あ、ああ。それは構わないけど……」

「?」


 一度言葉を切った俺に、片瀬は再び小首を傾げて見せた。


「すぐ近くとは言え、直射日光の中を突っ切るから、ちょっと覚悟は必要だぞ?」

「大丈夫、夏でもしてるから、散歩」

「お、言ったな。じゃあ、腹を決めて行きますか!」

「ヨーソロー」


 そして俺たちは頷き合い、コンビニの軒下から飛び出したのだった。








「お、史也に片瀬じゃねーか。この暑い中、古本屋とは物好きだな」

「征士?」


 古本屋にたどり着き、片瀬と二人で店内をぶらぶらしていると意外な人物と出会い、俺は驚く。

 薄いTシャツの裾から伸びる筋骨隆々の両腕に、太い首。

 筋肉という一面においてはアスリートの範疇を軽く超えてしまった男、牧村征士だ。


「おう。今日は暑さもあって部活が休みになったんでな」


 その解答に額に汗を滲ませた片瀬が、「あー」と頷く。

 流れる汗をたどれば、白い首筋や華奢な身体のラインにどうしても目が行ってしまうため、俺は視線を逸らしながら呟く。


「暇だから漫画でも漁りに来たのか?」

「ああ。午前はジムでトレーニングしてたんだけど、物足りなくてな。外をふらふらしてたどり着いた」

「……ジムデトレーニングシテモノタリナイ?」


 棒読みの俺の隣で片瀬が、「くすっ」と笑い、征士へ告げた。


「ちょっといわくつきの本を持っててさ、史也が」

「いわくつきってなんだ?」

「片瀬、呪いみたいに言うなて。……これなんだが」


 答えながら俺は胸ポケットに入っていた文庫本を征士に見せ、その経緯を伝える。

 それを聞いた征士は、「ふーん?」と興味なさげだったがやがて目に悪戯っぽい光を宿して笑った。


「なら、史也と片瀬で一つ勝負をしてみてもいいんじゃねーか?」

「勝負って、何のだ?」

「この店舗から一冊、本を選んで競い合うんだ。そうだなテーマは……」


 そして征士は腕を振り上げ、ガッチガチに仕上がった巨大な力こぶを俺達に見せてくる。


「インパクト! 全てに通じる真理だ」

「この筋肉オバケめ……」


 俺は引き笑いを浮かべてしまうものの、隣の片瀬は口元に微笑を浮かべて頷く。


「いいね、それ。インパクト」

「お、話せる口だな、片瀬。どうする、史也?」

「どうするもこうするも、この流れじゃ断れないだろ」


 その返答を聞いた征士は、「オーケー」と機嫌よく口笛を鳴らす。


「立会人は俺がやろう。二人はインパクトのある一冊を一時間以内に探して来る。それでいいか?」

「分かった」

「ん」


 そして征士はスマホの時計を確認し、スタートの合図を出す。

 それと同時に俺と片瀬は二手に分かれ、本を探しに店内を歩き出す。

 俺は一人、棚へ視線を走らせながら、


「インパクト、か。いざ考えると難しいな……。ま、チェーン店とはいえでかい店舗だし、トンデモオカルト本から当たるか」


 と呟いたのだった。

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