古い電話機
引っ越し
田中美咲は新しいアパートの鍵を受け取ると、重い荷物を抱えて階段を上がった。築30年の古いアパートで、家賃は相場より安かったが、単身赴任の身には十分だった。
部屋に入ると、前の住人が残していったのか、古い黒電話が床に置かれていた。重厚な作りで、どこか懐かしさを感じさせる。不動産屋に聞いてみようと思ったが、とりあえず隅に置いておくことにした。
その夜、荷解きをしていると、古い電話機が突然鳴り響いた。美咲は驚いて振り返った。まだ電話線は繋いでいない。それなのに、なぜ。
恐る恐る受話器を取ると、雑音の向こうから微かに声が聞こえた。
「もしもし...聞こえますか...」
女性の声だった。美咲は慌てて受話器を置いた。
毎夜の電話
翌日、美咲は不動産屋に電話をかけた。
「古い電話機?ああ、前の住人の山田さんが残していったものですね。処分してもらって構いませんよ」
「前の住人は?」
「山田花子さん。80歳くらいの女性でした。3か月前に亡くなられまして...」
美咲は背筋が寒くなった。
その夜も、また電話が鳴った。今度は美咲は受話器を取らなかった。しかし、鳴り続ける電話の音が部屋に響き、眠ることができなかった。
次の日、美咲は電話線を抜いた。それでも夜になると電話は鳴り続けた。電源などない古い電話機が、なぜ動くのか。
四日目の夜、美咲はついに受話器を取った。
「もしもし」
「ああ、やっと...やっと出てくれましたね」
老女の声がはっきりと聞こえた。
「どちら様ですか?」
「山田です。山田花子。その部屋の前の住人です」
美咲の手が震えた。
最後の願い
「驚かないでください。私には、どうしても伝えなければならないことがあるのです」
山田花子と名乗る声は、穏やかだった。
「私の部屋の押し入れの奥、畳の下に小さな箱があります。それを...それを私の娘に渡してもらえませんか」
「娘さんに?」
「連絡先は電話帳に書いてあります。山田聡美。私の一人娘です」
美咲は恐怖と同時に、何かに突き動かされるような気持ちになった。
「でも、どうして私に?」
「あなたは優しい人です。きっと聞いてくれると思っていました」
翌日、美咲は押し入れを調べた。畳を上げると、確かに小さな木箱があった。中には古い写真と手紙が入っていた。
電話帳で山田聡美の番号を調べ、電話をかけた。
「母の遺品?そんなものがあったなんて...」
聡美は驚いた様子だった。
「母とは長い間、仲違いしていたんです。最後に会ったのは10年前でした」
母の想い
聡美がアパートを訪れた。40代の女性で、母親に似た優しい目をしていた。
木箱を開けると、聡美の幼い頃の写真と、母からの手紙があった。
「聡美へ。長い間、連絡を取れずにいて申し訳ありませんでした。あなたの結婚を心から祝福しています。いつか許してもらえる日が来ることを願っています。母より」
聡美は泣きながら手紙を読んだ。
「私が結婚したことを、どうして知っていたのでしょう...」
その夜、古い電話機が最後に鳴った。美咲が受話器を取ると、山田花子の声が聞こえた。
「ありがとうございました。娘に会えて、やっと安らかに眠れます」
声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
静寂
翌朝、美咲が目を覚ますと、古い電話機は静かに佇んでいた。もう二度と鳴ることはなかった。
一週間後、美咲は電話機を不燃ごみとして出した。最後にもう一度受話器を取ってみたが、何も聞こえなかった。
新しい生活が始まった。時々、あの夜の出来事を思い出す。死者の願いを叶えることができて良かったと思う一方で、この世とあの世の境界がこんなにも曖昧なものなのかと考えることもある。
聡美からは後日、お礼の手紙が届いた。母の墓参りに行き、心から謝罪できたと書いてあった。
美咲は窓から見える夕日を眺めながら、人の想いの強さについて考えていた。愛する人への想いは、死をも超えて届くものなのかもしれない。
古いアパートは今日も静かに佇んでいる。どこかで、また誰かの想いが伝えられるのを待ちながら。
【終】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます