『ベイサイドブルー』

志乃原七海

第1話『結婚しないんじゃない。相手がいないの!』

ベイサイドブルー


第一話


午後三時。都心のオフィスビルの20階。窓の外は春霞に少しぼやけているけれど、デスクに向かうわたしの視界は、ディスプレイの数字とグラフでびっしりだ。キーボードを叩く指は止まることを知らず、脳内は山積みのタスクリストで埋め尽くされている。来週のプレゼン資料、明日のクライアントとの打ち合わせ準備、そして今夜中に仕上げなければならない企画書。


七瀬菜々美、29歳。今日も、いや今日もこそ、わたしの身体はカフェインとアドレナリンで動いているようなものだ。仕事は好きだ。否、好きというより、これだけ忙殺されていると、好きかどうかなんて考える暇もない。ただ、目の前の課題をクリアしていくことに、ある種の達成感を見出している。


そんな戦闘モード全開のわたしのスマホが、場の空気を読まずに震え始めた。画面には「母」の文字。うわ、いまか。よりによって、一番手が離せないときに。


「……はい、もしもし」

受話器を取る声は、自分でも驚くほど疲れている。

「ああ!菜々美?いま大丈夫?」

相変わらずのんきな母の声だ。いや、大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。

「大丈夫じゃないけど、なに?」

少し語気が強くなってしまったのは許してほしい。本当に、一秒だって惜しいのだ。

「もう、忙しいのねぇ。まあいいや、あのね、ちょっと聞きたいんだけど」

「なに?急いでるんだけど」

「あのね、そろそろ結婚しないのかい?菜々美ももうすぐ30でしょう?誰か良い人、いないのか?」


きた。必殺、結婚催促攻撃。週末に電話してくるときはたいていこの話題だと思っていたけど、まさか平日のこの時間に飛んでくるとは。母の結婚センサーは、いつでもどこでもONらしい。


「……いないわけじゃないの」

ほとんど無意識に、濁す言葉が出てきた。良い人。いないわけじゃない。会社にだって、昔からの友達にだって、それなりに声をかけてくれる人はいる。いない、と答えるのは嘘になる。

「いないわけじゃないの?じゃあ、いるの?どんな人なの?」

母の声が前のめりになるのがわかる。

「いや、だから、いるかいないかで言えば、入るかも知れないけど……まだそういう関係じゃないし、ていうか、いまじゃない気がするんだよね」

正直な気持ちだった。結婚を考えられるような相手がいるわけでもないし、そもそも、この忙しさの中で、誰かと人生を共にすることなんて、想像もできない。

「入るかもしれないって、どっちなのよ!いまじゃないって、いつになったら気分になるのさ!いい歳して遊んでるわけじゃないでしょう?」

「遊んでないってば!仕事してるの!毎日終電、下手したらタクシーだよ!」

「そんな働き方してるから、結婚できないのよ!」


あーもう、この堂々巡り。耳の横で、隣の部署の先輩から「例の件、いい?」と声をかけられた。現実に戻らなくては。


「ごめん、母さん。いま本当に手が離せないの。上司に呼ばれてるから切るね!」

また嘘をついた。でも、こうでもしないと、いつまでもこの話は終わらない。

「えぇー、ちょっと待ってよ!この前、近所の山田さんの娘さんがね――」

「切るね!また今度!」


一方的に通話を終了する。はぁ、と今日何度目かわからないため息が漏れる。母との電話は、いつもわたしの心に小さな波紋を立てる。結婚。まだいい。いまじゃない。そう言い聞かせているけれど、その「いま」は、いつになったら来るのだろう。そして、本当に来るのだろうか。


窓の外に目をやる。曇り空の下、遥か遠くに見えるのは、海の気配だろうか。少しだけ、胸がざわついた。


よし、仕事、仕事。現実逃避は終わりだ。


(第一話 終)

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