アイドル(偶像) 失格

kareakarie

◆第一部 生放送編◆第1章 楽屋と戦闘服

小宮真奈がテレビ東洋の通用口をくぐったのは、本番の四時間前だった。守衛に軽く会釈をして、プラスチックの入館証を受け取る。首から提げたそれの、ひんやりとした感触が妙に現実的だった。廊下はだだっ広く、天井が高い。ひっきりなしに行き交うスタッフたちの足音や話し声が、リノリウムの床と吸音材の壁に吸い込まれて、奇妙に反響していた。誰もが何かに追われているような、それでいてその状況を楽しんでいるような、独特の熱気が澱みなく流れている。


「あ、真奈ちゃん。おはよ」


すれ違いざまに声をかけてきたのは、今日の番組で共演する出村璃子だった。彼女はすでに衣装とメイクを完璧に仕上げていて、まるでスポットライトの当たらないこの薄暗い廊下でも、一人だけ発光しているように見える。


「璃子ちゃん、早いね。おはよう」


「なんか早く着いちゃって。真奈ちゃんの楽屋、確かこの先だよね。じゃ、後で」


手をひらひらと振り、璃子は大股で、しかし不思議と優雅に角を曲がって消えた。あの歩き方、きっと誰かに見られていることを常に意識している人間のそれだ。真奈は自分の足元に視線を落とす。履き慣れたスニーカーが、急にみすぼらしいものに思えた。


割り当てられた楽屋のドアには、『小宮真奈様』と角ゴシック体で印字された紙が素っ気なく貼られている。中に入ると、真新しい花の匂いがした。テーブルの上に置かれた胡蝶蘭は、おそらく番組のプロデューサーからだろう。その横に、今日の台本と香盤表が並べられている。


「おはようございます、真奈さん」


先に部屋に入っていたマネージャーの佐橋が、ハンガーラックに衣装をかけながら言った。


「佐橋さん、おはようございます。これ、間宮さんからですかね」


真奈は胡蝶蘭の白い花びらに指先でそっと触れる。


「ええ、さっき届きました。『今夜も視聴者を夢中にさせてください』、だそうです」


佐橋は間宮の口ぶりを真似て、少しだけ声のトーンを落とした。彼女は真奈より四つ年上で、いつも落ち着いている。感情の起伏が少ないその性質が、この浮き足立った世界では何よりの安定剤だった。


「夢中に、か。大きく出るなあ、あの人は」


真奈は椅子に深く腰掛け、鏡に映る自分を見つめた。まだ何者でもない、ただの小宮真奈の顔がそこにある。これから二時間後には、この顔は視聴者の求める「小宮真奈」に塗り替えられていく。それは息苦しくもあり、同時に抗いがたい快感でもあった。


「台本、目を通しました?」


「ええ、一応。いつも通り、あってないようなものだけど」


真奈は台本を手に取る。数ページをぱらぱらとめくっただけで、もう閉じてしまった。そこに書かれているのは、あくまで骨組みだ。司会の雅川義夫は、台本通りに番組を進めたことなど一度もない。彼の繰り出すアドリブのパスに、いかに気の利いた言葉で、いかに魅力的な表情で応えるか。それがこの番組における、真奈たちの唯一にして最大の仕事だった。


「雅川さん、今日はどんなボール投げてくるかな」


「さあ……。でも、真奈さんなら大丈夫ですよ。いつもうまく打ち返してるじゃないですか」


「そう見える?」


「見えます」


佐橋はきっぱりと言った。その断言に、真奈は少しだけ救われる。


鏡の中の自分に、にこりと笑いかけてみる。口角の上がり方、目の細め方、完璧な角度。練習の賜物だ。これは、小宮真奈の笑顔じゃない。「小宮真奈」の笑顔だ。二つの違いを、視聴者は気付かない。それでいい。気付かれてはいけない。


ドアが軽くノックされ、間宮文彦が顔を覗かせた。三十代半ばの彼は、いつも高価そうな、しかし少し着古したジャケットを羽織っている。その瞳は、すべてを見透かすような、それでいて何も見ていないような、不思議な光を湛えていた。


「小宮さん、調子はどうかな」


「間宮さん。おかげさまで。お花、ありがとうございます」


「いや。君の働きに見合うものかは分からないがね」


間宮は部屋には入らず、ドアに寄りかかったまま言った。「今日の企画、見てもらえたと思うけど、少し変更があってね。出村さんとの対決コーナー、あれ、もう少し時間を延ばすことにした」


「……そうですか」


「彼女、最近乗ってるからね。数字を持ってる。君とぶつけたら、面白い画が撮れるんじゃないかと思ってね。視聴者は、若い女の子たちが競い合ってる姿が好きだから」


悪びれもせず、彼はそう言った。まるで天気の話でもするように。


「期待に応えられるように、頑張ります」


真奈は完璧な「小宮真奈」の笑顔で答えた。


「ああ、期待しているよ」


間宮は満足そうに頷くと、「じゃあ、本番で」という短い言葉を残して去っていった。ドアが閉まると、部屋に沈黙が落ちる。花の匂いだけが、やけに強く感じられた。


「……だそうです」


真奈は呟き、鏡の中の自分と再び向き合った。出村璃子との対決。競い合う姿。面白い画。間宮の言葉が頭の中で反響する。


「大丈夫ですよ」


佐橋がもう一度言った。その声には、先ほどよりも少しだけ、力が込められているように聞こえた。


「大丈夫かな。大丈夫じゃなきゃ、やってらんないよね」


真奈は立ち上がり、ハンガーラックにかけられた衣装に手を伸ばした。スパンコールが散りばめられた、非現実的なほどに華やかなドレス。これを着て、自分じゃない誰かになる。視聴者を、そして何より自分自身を騙すための、戦闘服だ。


「さ、始めよっか。今夜も、夢中にさせなくちゃ」


その声は、もういつもの彼女のものではなかった。甘く、弾むような、誰もが聞きたがる声。鏡の中の女が、にっこりと微笑み返していた。

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