3話
男に握られた右手はこの重苦しい夏の空気のせいか、それとも私の恐怖からかじっとりと湿っているのが自分でもわかっていた。
どのくらいの距離を歩いただろうか。
改札を出てから線路脇の一本道をただひたすら祭囃子とは逆の方向に歩き続けた。
どのくらいの距離を歩いたかわからないが、出発した駅舎はとうに見えなくなっており、道が続く先の夕日はもうあとわずかで沈んでしまいそうだった。
ただ唯一助かったことは線路沿いの道は妙に整備されており、草一本生えおらず割れも欠けもない綺麗なアスファルトであった。
これで穴だらけの道であったらさらに厳しい状況であったに違いない。私はそんなことを考えながら、できる限り“音”を無視しようとしていた。
太鼓、笛、シャン、シャンと鳴る錫杖のような音。
耳を塞いでも止まらない。というより、どんどん音が近づいてきているようにすら感じる。
「……あの、音、さっきより……大きくない?」
私が尋ねると、男はゆっくりと頷いた。
疑念が確信に変わった瞬間、背中に汗が伝い、胃が回転したかのように気持ちが悪くなった。
私は震え歩くのをやめてしまいそうな冷えた足を引きずり、できる限り音を意識しないように努めた。
「……私、藤宮っていいます。藤宮奈百合。……あの、さっきから一緒にいるのに、まだ名前聞いてなかったですよね……」
男は歩きながら一瞬こちらを見て、また前に目を戻した。
「名前なんてどうでもいいじゃないか。好きに呼びなよ」
「……白状します。私、本当に今怖いんです……叫び出しそうなんです。もう歩きたくなんてないんです。だけど逃げなきゃじゃないですか。だから、この非現実的な出来事とはかけ離れた地に足がついたような話がしたいんです」
私は早口でそう言い切った。
男は私に聞こえるほど大きな、それでいて呆れたようなため息をこれみよがしについた。
その嫌味な仕草に言い返そうとしたその瞬間。
「冬馬」
男は足を止めることも、振り返ることもせず、呟くように言った。
「……え?」
「呼びたきゃ、そう呼べばいい」
なんとも言えない引っかかりがあったが、私は小さく「冬馬くん」と口に出してみた。
不思議なことに、それだけでほんの少しだけ、背筋の冷たさが和らいだ気がした。
「そんなことよ。、足音が増えてる」
「足音……?私と冬馬くんのじゃなくて?」
「違う。僕たち以外の何かが、同じペースでついてきてる」
私はちらりと後ろを振り返るが、そこには誰もいない。
辺りは夜の匂いをまとい始めており、見つめた先はほの暗く沈んでいた。
勘違いであって欲しい、そう祈りながら早足で彼の隣を歩き続けた。
少しでも立ち止まれば、あの音が私の後ろから、耳元に張り付くように響いてきそうで怖かった。
暫く歩いていると、冬馬くんが急に立ち止まった。
私は音に追いつかれるのだはという恐怖から彼の手を少し引いたがびくともしなかった。
「どうしたんです?早く行きましょうよ。」
「……いや、見てごらん。道がある」
そう言って冬馬くんは顎で左側を指した。
私は誘導されるがまま、そちらを見ると線路沿いの道から、左手に逸れて続く細い未舗装の道を見つけた。
薄暗く、雑草が生い茂っている。
脇に立つ木製の標識が腐りかけて斜めに立っていた。
「……村?」
「この標識が読めるのかい……?」
冬馬くんの驚いた声を聞き再度その腐りかけの標識に目をやるが、先ほどなんとなく読めた感覚が消え失せていた。
何度も返してもそこに並ぶのは、意味不明な記号だけだった。
「……村、に見えた。けど今は……わかんない」
「そうかい。ならそれで十分だよ」
冬馬くんはは標識の示す方をじっと見つめた。
「よし、こちらに行くよ」
暫く考え込んだ後、冬馬くんははっきりとそう言った。
グッと私を握る手に力がこもり前に進もうとしたが、私はできる限りの力でそれを拒否した。
「こんな道、誰も住んでるわけないじゃないですか。こっちの道の方が電気もついてるし安全ですよ!」
「君、それを本気で言っているのかい?」
「君じゃないです!藤宮です」
「はァ……藤宮くん、本気かい?」
冬馬くんは眉を顰めて迷惑そうな空気を隠しもしなかった。
そして私の手を掴んでいる手とは反対の手で耳を触りながらどうでも良さそうに喋り出した。
「さっき言った足音だけど……前から来ているよ」
彼の言葉にゾクリとした。
私は前に続く線路沿いの道を見やった。
そこには街灯が等間隔で立ち並び、電灯の下には蛾や羽虫が飛び回っている。
この先に集落があるかもしれない。人がいるかもしれない、そんな期待を抱かせる光景。
けれど、風の向きが変わったのかなんなのか、音が正面から来ているようにすら聞こえる。
恐怖で頭が痛い。
目を瞑ってしゃがみ込んでしまいたい。
考えを放棄したいのに冬馬くんはそれを許してはくれない。
「お膳立てされた一本道に乗るか、予定外の道に飛び込むか。選びなよ」
彼は冷たく私にそう言い捨てた。
私は唇を噛んだ。
「バカじゃやいの!そんな酷道に自分から行く人がいるわけ……!」
私は言いかけて、思わず声を詰まらせた。
あれほどまでに強く握り離さなかった私の手を冬馬くんがふっと振り払ったのだ。
「なら、好きにしたらいい」
彼は鼻を鳴らすように笑って、標識の先、あの草が大茂り鬱蒼とした道の中へと一歩、足を踏み入れた。
彼の背中が見えなくなるかならないか、そんな時に冬馬くんは立ち止まった。
「映画では、そう言って人から離れていったやつから死ぬのがセオリーだよ」
そう言い残して、草の揺れる道をずんずん進んでいった。私はその場に立ち尽くし、動けなかった。
頭の上の電灯から耳鳴りのようなジーッという音がしている。光を求め飛び回る虫がぶつかってパチパチと音を立てる。
じわりと、首筋を汗が伝った。
先ほどよりも、囃子の音がはっきり聞こえる。
それだけじゃない。
草が揺れている。
風のせいではない。
一定のリズムで。
足音のように。
「……まって!!!」
私は反射的に叫んでいた。
草をかき分けるように、彼の後を追って走る。
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