第4話 独占の渇き

 唾液を受け取るたびに、怜の中に積もっていた感情があった。


 それは、快楽でも、感謝でも、安心でもない。

 もっと――重くて、鈍くて、黒い感情。


 たとえば、ある日のこと。


「ねぇ怜くん。……もし、他の男の子にも唾液をあげたら、どうする?」


 テレビの音が流れる静かな部屋で、紗月が何気ない声でそう言った。


「は?」


 怜は笑いかけようとして、声が出なかった。


「冗談だよ、冗談。でも、ほら、たまには違う子にもあげてみたらどうなるのかなーって。反応とか」


 紗月は楽しげに言いながら、唇をぺろりと舐めた。

 そして、まるでその“他の誰か”に渡すような動作で、指を舌に這わせていた。


 ――違う。


 その唾液は、自分のためのものだ。

 他の誰かが舐めるなんて、ありえない。


 喉が締めつけられるような感覚が怜を襲った。


「……誰にも、あげるなよ」


「うん?」


「……俺だけにしてくれよ。……それ、お前の味、全部」


 言ってから、怜は自分の声が震えていたことに気づいた。


 嫉妬なんて、感じたことなかった。

 でも今は違う。

 彼女が自分以外に微笑む未来を、想像したくなかった。


 唾液一滴ですら、他人に渡さないでほしい。

 それくらいには――もう、染まっていた。


 


 ***


 


 紗月は怜の目をじっと見つめ、静かに微笑んだ。


「……そっか。ふふっ。怜くん、ちょっとだけ可愛くなったね」


 そして彼女は、怜の頬に手を添えて、ゆっくりと唇を近づけた。


「安心して。あなた以外にあげるわけないじゃん」


 吐息の混じる声。

 そのまま、彼女の舌が怜の唇を割って入り込んできた。


 唾液が、口の中に落ちる。

 喉が震え、身体が熱を帯びる。


 それは“ごほうび”ではなく、**「所有印」**のように思えた。


「あなたは、私だけのものだよ。……そして私は、あなただけの味になる」


 


 ***


 


 その夜、怜は一人、鏡を見つめていた。


 唇が、まだぬるく湿っている。

 喉の奥に、微かな甘さが残っている。


 だけど――その味が、永遠ではないことが怖かった。


 もし明日、彼女が与えてくれなくなったら?

 もし急に、他の誰かに“あげる”と言い出したら?


 そのとき、自分はどうなる?


 「……たぶん、壊れるな」


 ぽつりと呟いた言葉に、誰も答えなかった。

 でも、その“壊れる”という言葉に、なぜか怜は――少しだけ安心した。


 壊れることを怖がるより、壊れてしまいたいと思える今が、幸せかもしれない。


 


 ***


 


 次の日。

 紗月は、何も言わずに唾液をくれた。


 それだけで、怜の世界はまたひとつ満たされた。

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