甘い罠 〜気づかない内に堕ちていく〜

朝凪 ひとえ

第1話 甘い雫

 初めて“あれ”を舐めた日を、怜(れい)ははっきりと覚えている。

 忘れられるわけがない。

 それは、日常が音を立てて崩れる合図だったからだ。


 


 きっかけは、大学の帰り道だった。


「ねぇ、怜くんって、飴好き?」


 そう聞いてきたのは、同じゼミに所属する紗月(さつき)だった。

 帰り道にたまたま並んで歩いていた彼女は、手にしていた小さな袋から赤い飴玉を取り出すと、口にぽいっと放り込んだ。


「好きか嫌いかで言えば、普通かな」


「ふーん。じゃあこれ、あげる」


 そう言って彼女が差し出してきたのは――

 今、自分の口に入れていた、舐めかけの飴だった。


「は?」


「ほら、さっきまで舐めてたやつ。交換ってことで」


 意味がわからなかった。


 普通なら拒否するところだ。

 でも、そのときの怜はなぜか――指先から伝わってくる温もりに、目が離せなかった。


「……ふざけてるだろ、お前」


「ううん。ぜんぜん。……ねぇ、舐めてみて?」


 彼女の瞳は真剣だった。どこか挑むような光をたたえていた。


 そのまま舐めた。

 何の味がしたのかなんて覚えていない。

 ただ、口の中に残っていた彼女の唾液のぬめりと、微かな熱だけが、異常にリアルだった。


 舌が、喉が、ゆるく痺れたように感じた。


 それが最初だった。


 


 ***


 


 それから、少しずつ変わっていった。


 彼女は、日を追うごとに“それ”をくれるようになった。

 噛みかけのガム。舐め終えた飴。飲みかけのペットボトル。

 直接、舌に唾液を垂らしてくることさえあった。


「今日もえらいね、怜くん。……はい、ごほうび」


 ぺろりと指を舐めて、彼の唇に当てる。

 そのぬるりとした感触が舌先に触れるたび、身体の奥がじんわりと熱くなるような快感が走った。


 最初は戸惑っていた。

 でも、彼女がそうしてくれるのを、いつの間にか“待つように”なっていた。


 


 彼女の唾液には、何かがある。

 舐めるたびに気分が軽くなり、頭の中がクリアになる。

 言葉にできないけれど――それは間違いなく、“普通”じゃない。


 そして気づいた。

 自分の中の何かが、変わってきていることに。


 


 ***


 


 ある日の放課後。

 紗月が怜の部屋に来た。


 特に理由もなく、自然にそこにいた。

 彼女の訪問は日常になりつつあった。


「おじゃましまーす。あ、今日ちょっといっぱい溜めてきたからね」


「なにが……って、ああ。いつものやつか」


「そ。あげる」


 彼女はソファに座りながら、自分の指をゆっくりと舐めていく。

 指先が濡れていくたびに、怜の鼓動が速くなる。


「ほら、口開けて」


 命令でもお願いでもなく、ただの“習慣”のように。


 怜は抵抗することなく口を開けた。

 唾液を乗せた指先が、舌に触れる。


 とろり、と広がる感触。

 ぬるい。甘い。

 なのに、その瞬間に――背筋が震えるほどの快感が襲ってくる。


「ん……っ、はぁ……」


「ふふっ、怜くん、気持ちよさそう」


 彼女が笑う。

 それが、なぜか誇らしかった。


 


 もう、他のことがどうでもよくなっていた。

 食べ物の味は薄れ、他人との会話も上の空。

 でも、彼女の唾液だけは、毎回、はっきりと身体の内側に残った。


 


 変わっている。確実に。


 でも、それは“悪いこと”ではないように思えた。

 むしろ――これが自分の“あるべき形”なのでは、と思うようになっていた。


 


 ***


 


 夜。

 ベッドに横たわった怜の隣に、紗月が寄り添っている。


「ねぇ、怜くん。……どうして舐め続けてるの?」


「……お前が、くれるから」


「ふーん。じゃあ、もし私が明日からあげないって言ったら?」


 怜は沈黙した。

 考えたくなかった。でも、考えなければならなかった。


 あげない、と言われたらどうなる?


 ……たぶん、壊れる。

 いや、まだ“壊れる”というほどじゃない。

 でも、“何かが剥がれ落ちる”ような気がした。


「それは……嫌だ」


「じゃあ、これからもちゃんと舐めてね。……私の味で、全部埋めてあげるから」


 その言葉が、なぜか“救い”のように聞こえた。


 彼女の中に包まれることで、自分は“確かな形”になれる。


 それが、最近の怜にとっての“生きてる実感”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る