第4話
足音に振り返ったが、随分近付くまで気付かなかった。
今は
こういう時、こいつの頭の中には何が思い巡っているのだろうなと考える。
「何を見ていた?」
「……いえ、なんとなく部隊の動きを」
今更新兵の修練なんぞ見せても、その才気は眠ったままか。
当然だな。
今、
生死のやりとりをしているのだという実感。
辛うじて、組み敷かれ抱かれている時は陸議は抗う感情がまだ強いようで、追い立てているとこのまま自分は殺されるのかもしれないと、怯えてたり泣いたり危機感のある表情を見せる。
翌朝見せる深手を負わされ、疲れ切った表情は、司馬懿は気に入っていた。
一つの戦を戦いきったような、そういう全てを受け容れて達観したような静かな表情を浮かべるのだ。
司馬懿は一度だけ戦場で相見えた、
はっきりと違う男に抱かれているのだという現実で、陸議が斬り付けられているのを感じる。
それは逆に言えば、それほどあの男とは強く結び付いていたのだろう。
単に武将と軍師が戯れに性に交わり、戦いの合間に時を潰していた、そういうこと以上のものだ。
司馬懿を強く憎んだり、抗ったりする感情はまだ一度も
あの男を自分の手で殺した時、そうさせた司馬懿のことも憎み、自分自身にも怒るはずだ。
そうして自分には戦場で生きるしかないのだと、そう心が揺るがず定まるだろう。
たった一人で自分の前に現れ、双剣を両手に翳し、猛禽のような強い瞳を輝かせて、自分を見据えて来た戦場の
あの気高い、真紅の美しさが。
時折司馬懿は、例え殺し合いのようになってもいいから、あの姿を取り戻した
剣が欲しいなどと言って戦場に赴こうとする意志を垣間見せた時も酷いやりかたで抱いてやったが、翌朝にはもう静かな表情に戻っていた。
あれでは駄目なのだ。
無意識に、司馬懿はかつて陸伯言に傷付けられた目の上あたりの古傷に指で触れていた。
最後の最後まで抗い、何かを仕掛けてこようとする、あの鮮烈な意志。
あの目と気配で常に貫かれていたい。
それはまだ、
「でも」
「あの人の剣の使い方は少し独特な気がします」
「
私と共に出陣するのは稀だが、今後はあれにも曹操ではなく
奴の軍師としての力量を見極めるいい機会だ」
「涼州……」
いや、
涼州は険しい山岳地帯と広い荒野を持つので、騎馬隊が勇猛だと聞く。
眼前で別の将との打ち合いをしている武将をもう一度見る。
敵との間合いの取り方が独特だ。
「あれは騎馬隊と戦うための武芸なんですね」
一瞬そうか、という色合いで
その表情を見てふと司馬懿は思いついた。
「打ち合ってみるか」
「え?」
「お前には事前練習など無用とも思うが。
お前も戦場に連れて行くのだから、
陸議は
フッ、と彼は口許で笑む。
「そうだ。次は
よってその地に詳しい
対蜀の防衛拠点を今のうちに確保しておきたい。
涼州の山岳地帯は天然の砦だからな。
今、涼州の人も物資も成都に流れている。
まずはその流れを断ち切るんだ」
涼州が魏の勢力下に置かれれば、蜀は東に活路を求める。
しかし先だっての戦いで呉蜀同盟は決裂した。
模索はされたとしても、呉には
今、呉軍の全権を任されているのは
彼は以前
だが同時に周瑜の遺言は何があっても遵守するだろうと思う。
それを譲れば彼の立場が呉内で揺らぎかねないからだ。
同盟の話を突っぱねれば、呉と蜀は戦になる。
涼州を抑えられた蜀には後退出来る場所がない。
あの地が再び戦場になる。
目まぐるしく考えていた陸議は
ハッと顔を上げると、顎を掴まれる。
「その顔はいいな。やはり戦の気配がすると軍師の血が騒ぐか」
まだ眠り続ける子供のような才だが、
陸議が勘を取り戻すための敵としては悪くない。
「精々楽しませてもらうぞ」
司馬懿が帯に手をかけたので、陸議は思わず手首を取った。
「……貴方は立場がある。……ここはまずい」
司馬懿は冷笑を浮かべる。
時々陸議はこうして非常に冷静な声も聴かせるのだ。
あの時は部下にも、突然
今、気が向けば組み敷けるほど側にいて、
何をするにも、させるにも思いのままだというのに、
どこか司馬懿は満たされずにいる。
まだ本当の陸伯言に、再会していないような気がしているのだ。
「いいだろう。続きは寝所で聞いてやる」
陸議を連れて歩き出すと、数歩階段を上がった所で司馬懿は肩越しに眼下を振り返った。
修練場の水庭に一人の男が佇んで、微笑んでこちらを見ているのだ。
眉目秀麗で白面の面差し。
すぐに分かった。
(
司馬懿は睥睨すると、それ以上は構わずそのまま歩き出した。
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