第10話 その一球は、誰のため

 その日は、朝から薄曇りだった。




 桜が丘高校野球部のベンチには、慣れないユニフォーム姿の風祭球児がいた。


 背番号1が、真新しい白い背中に浮かんでいる。




「試合、始まります!」




 球審の声が響くと、グラウンドの空気が一瞬で変わった。


 県内でも中堅と呼ばれる相手校は、既にきびきびとした動きで守備につき始めていた。




「いよいよだな……」


 三島がヘルメットをかぶりながらつぶやく。




「勝てるよ、きっと」


 千紗はダッグアウトの奥で、祈るようにスコアブックを握っていた。




 序盤は、予想外に互角だった。


 藤木のバントで得点圏に走者を送り、小野寺のヒットで1点をもぎとる。


 先発の内田も初回を無失点で切り抜けた。




 しかし、試合はそんなに甘くなかった。




 五回。


 連打、四球、パスボール。三つのミスが重なり、あっという間に3点を奪われる。




「タイム!」




 三島がマウンドへ駆け寄る。


 グラブの中で内田の手を叩きながら、ふとベンチの方へ視線を投げる。




 そこには、キャップを深くかぶった球児が座っていた。


 足は肩幅に広げ、右手にはグラブがある。


 だが、動かない。




「……あいつ、投げねぇのか?」




「一応、“ベンチ入り”ってだけで、投げるとは言ってないし」




 ベンチの空気に、微妙なざわめきが走る。


 点差は広がっていく。六回にはさらに2点を追加され、試合は一方的になった。




 結果──2対7の完敗。




 試合後、整列の声だけがグラウンドに響いた。




 ベンチ裏。


 汗と泥にまみれたユニフォームの中で、ある者がぽつりと口を開いた。




「……風祭さんさ、何で投げなかったの?」




 空気が、ぴんと張り詰める。




「だって、あんたが投げてたら、もっと違ったんじゃ……」




「やめなよ」


 千紗が止めようとするが、球児はそれを制して立ち上がった。




 その目は、試合中とは違う色をしていた。




「……俺は、勝つためだけにここへ来たんじゃない」




 その声は小さく、でもどこか、遠くを見ているようだった。




「じゃあ、なんのために……?」


 問いかけは続かず、球児はそれ以上、言葉を飲み込んだ。




 ベンチ裏の風が、少し強く吹いた。




「……誰のために投げたい?」




 千紗が、そっと隣に並びながらそう尋ねた。


 顔は向けず、ただ手元のスコアブックを静かに閉じる。




 球児はその問いに答えなかった。


 けれど、その右手は、グラブの中でゆっくりと拳を握っていた。







 試合前のブルペンに立つ内田勇人の手は、わずかに震えていた。




 額にじっとりと浮かぶ汗。グラブの中で滑る指先。


 何球投げてもストライクが取れず、フォームが定まらない。


 彼の心臓は、練習試合とは思えないほど激しく打っていた。




 それも当然だった。


 内田は元々、ベンチの端っこで声を張るだけの、いわゆる“応援専門要員”。


 「ナイスバッティンッス!」「次いけますよ!」と叫ぶのが主な役目だった。




 だが今日は──違う。




 背番号10。先発投手として、マウンドに立つことが決まっていた。




「うそだろ、俺が……先発……?」




 そう何度もつぶやいても、緊張は和らがない。


 仲間たちは「いけるって!」と励ましてくれるが、内田の目には、別の男の姿が焼きついていた。




 ベンチの隅に、静かに腰かける一人の投手。


 桜が丘野球部、背番号1──風祭球児。




 甲子園常連校の元エース。155キロの直球と落差あるフォークを操る天才投手。


 彼がいれば、この試合だって違った展開になったかもしれない。


 そんな想いが、内田の胸をかすめる。




(風祭先輩……なんで、投げないんですか)




 それでも、内田は自分の役割を果たすため、グラウンドへと歩を進めた。




 初球は、大きく外れた。


 キャッチャーが立ち上がって捕球し、ベンチが静まりかえる。




 三回までは、どうにか耐えた。だが、四回の途中から連打を浴び、スコアボードは一気に傾き始めた。




「タイム!」




 三島主将がマウンドに駆け寄ってくる。


 帽子を脱ぎ、内田の顔を覗き込んだ。




「大丈夫か。顔色、ヤバいぞ」




「……ちょっと、指がしびれてて」




 三島は一瞬だけ、ベンチを振り返った。


 風祭の方を見て、何かを言いかけたが──やめた。




 風祭は、ベンチでずっと帽子のつばをいじったまま、視線を上げることもなかった。




 内田は、その背中を見た。


 それだけで、言葉にならない何かが、胸に押し寄せた。




 試合は、そのまま敗れた。


 悔しさと、不完全燃焼の思いが混じったまま、内田はスパイクを脱いだ。




 だが、後悔はなかった。


 あのマウンドに、自分の足で立てたこと。


 打たれても、逃げずに最後まで投げ抜いたこと。




 それが、内田にとっての「始まり」だった。




(背番号10でも、マウンドの高さは変わらない。なら……もう一度、俺が立ってもいいっスよね、先輩)




 夜のグラウンド。遠くに見えるブルペンで、誰かがひとり、黙々と整備をしていた。


 その背中に向けて、内田は小さく帽子を脱ぎ、礼をした。







 試合の途中、千紗はスコアブックのペンを止め、何度目か分からないほど視線を左に向けた。




 ベンチの端。背番号「1」のユニフォームが、静かに腰掛けている。




 風祭球児。




 その横顔は、いつもより少しだけ硬く見えた。


 キャップのつばを深くかぶっていて、目元はよく見えない。けれど、頬にわずかな緊張が残っているのがわかる。




 千紗は、自分の手のひらに汗が滲んでいることに気づく。スコアブックの紙が、指先に吸い付いてくるほどしっとりしていた。




 ——ああ、今日もまた、風祭くんは投げないんだ。




 そんな思いが、胸の奥に淡く沈んでいた。




 それでも、彼は来てくれた。


 ちゃんとユニフォームに袖を通して、背番号を背負って。


 ブルペン整備をして、チームの練習に加わって、笑ったり、真顔になったり。




 ……だけど、まだ“本当の意味で”マウンドには立っていない。




 三島がマウンドに駆けていったとき、球児の方を見たのを千紗は見逃していなかった。


 それでも彼は、動かなかった。ずっと、つばの奥で沈黙していた。




(たぶん、まだ迷ってるんだ。あの時の自分と……誰かの期待と)




 彼が背負ってきたものの重さを、千紗は想像することしかできない。


 有名校のエースだった彼が、なぜ転校してきたのか。どうして野球から距離を置いていたのか。




 それを聞いたことはなかったし、聞くつもりもなかった。




 ただ、千紗は知っている。


 風祭球児という人が、黙って誰よりも部員たちのことを見ていて、ノートに書き留めて、グラウンドのマウンドを夜な夜な整備していたことを。




 その背中は、誰よりも野球を愛している人の背中だった。




「……風祭くん」




 試合の帰り道。並んで歩く彼の横顔に向かって、千紗はぽつりと声をかけた。




「誰のために……投げたい?」




 彼は、ふと立ち止まった。


 その横顔は、いつになく素直な表情で、でも答えはまだ持っていないようだった。




 千紗は、少しだけ笑った。




「ううん、ごめん。変なこと、聞いたね。でも……」




 ——その背中を、いつかまた、マウンドで見たいと思ってる。




 言葉にはしなかったけれど、千紗の視線がその想いを伝えていた。







 試合が終わったあと、ベンチが少しだけざわついている中、飯塚まことはスコアブックを膝にのせ、ペン先を止めたまま動けなくなっていた。




 表紙には「練習試合 桜が丘高校野球部」と手書きされた、まだ真新しいスコアブック。


 彼が初めて自分で選んだ道具だ。




「……七失点、か」




 飯塚は小さくつぶやいた。




 スコア欄の「相手校 7」の数字が、ページの右上にぽっかりと空いたままだった。


 記録しなければいけないことはわかっている。だけど、どうしても手が動かない。




「数字って、残酷っスね……」




 となりでスコアを覗き込んでいた千紗が、くすりと笑った。




「うん。残酷だし、逃げられない。でも、忘れないってことでもあるんだよ」




 飯塚はペンを握り直した。




 マウンドに立った内田先輩が、汗をかきながら最後まで投げ抜いたこと。


 ベンチで黙って見守っていた風祭先輩が、キャップのつばを下げたまま一言も発さなかったこと。


 そして、三島主将が誰より声を張って、最後まで仲間を鼓舞していたこと。




 その全部が、ただの「7失点」という数字には収まりきらない。




「……でも、俺、ちゃんと書きますよ」




 飯塚は、ゆっくりと「7」の数字をスコア欄に書き込んだ。


 ゆがんだ字だった。泣きそうな目で書いたから、線が少し震えている。




「うん、えらいえらい。泣き虫スコアラーさん」




「うわ、ひどい。俺もう二年っスよ、子ども扱いしないでくださいよ」




 そう言いながら、飯塚は袖でそっと目元を拭った。


 千紗が、静かにそのスコアブックを閉じるのを見届けて、ぽつりとつぶやいた。




「ねえ、私たち、今日……誰かの“何かを変える一球”を見てたのかもしれないよ」




 飯塚はきょとんとした顔で千紗を見た。




「え?」




「記録には残らないかもしれないけどね。風祭くんの背中とか、内田くんの球とか。……私、忘れないと思うな」




 グラウンドの向こう。マウンドに立っていた内田の足跡が、まだかすかに残っていた。


 数字じゃない、想いの跡。




 飯塚はそっとペンをしまい、スコアブックを抱きかかえた。




「……俺、がんばって記録続けます。数字も、気持ちも、なるべくちゃんと残しますから」




 その後ろ姿を見送りながら、千紗は微笑んだ。




 スコアブックには書ききれない。


 でも、たしかに刻まれた──そんな一日だった。







 放課後の帰り道、千紗は教科書とノートの間にこっそり挟んでいた、小さな手帳を取り出した。




 “風祭くん観察日記”と、走り書きされた表紙。


 誰にも見せていない、自分だけのちいさな記録帳だ。




 開かれたページには、今日の練習試合で気づいた小さな出来事が、いくつも丁寧な字で並んでいる。




 6月×日(晴れのち曇り)




・今日はユニフォームで登校してた。ちゃんと袖に名前が入ってたの、ちょっと感動。




・ベンチでキャップのつばを3回いじってた。たぶん、落ち着かないときの癖。




・「ピッチャー交代かも」の声が出たとき、風祭くんが背番号を一瞬見てた。


 ──そのあと、そっと視線を落としたの、見逃さなかった。




・スコアのページをじっと見てたとき、まばたきが多かった気がする。あれはたぶん、迷ってるときのサイン。




・試合後、内田くんが悔しそうに黙ってたとき、そっと声かけてた。内容は聞こえなかったけど、背中が優しかった。




 そして、ページの下の余白に、小さくこう書き添えられていた。




「今日の風祭くん:誰かのために、投げたいって思ってた。きっと。」




 千紗は手帳を閉じ、そっと制服のポケットにしまった。




 まだ、彼は迷っている。


 けれど、その迷いの中で、少しずつ何かを探しているように見えた。




 だからこそ、こうして観察するのが好きだった。


 ちょっとだけ不器用で、真っ直ぐで、まだ“自分”に気づいてない風祭球児を。




 初夏の風が、スコアブックの紙を揺らしていた。







 試合中、誰に言われたわけでもなく、球児はふらりとブルペンの方へ足を向けた。




 両チームの歓声や、金属バットの響く音が、遠くに聞こえる。


 けれど、そこには誰もいなかった。静まり返った、使われていない第二ブルペン。


 少し傾いたマウンドには、昨日の整備の跡がまだ残っている。




「……」




 球児は立ち止まり、スパイクの先でマウンドの土をそっと掘った。


 湿った土が指にまとわりついて、重く感じた。




 ベンチでは背番号10の内田が投げていた。


 緊張に肩をすくめて、それでも真っ直ぐな目をしていた。


 あのとき、ベンチから誰かが言った。「風祭、肩つくっとけよ」──そう聞こえた気がして、球児は立ち上がろうとした。




 けれど、足が動かなかった。




「……無理だよな」




 風が吹いて、帽子のつばをなびかせた。


 空は夕方に差し掛かっていた。西日がグラウンドを斜めに照らし、球児の影が細長く伸びる。




「投げるのが怖いんじゃない。……でも、もしあの時みたいに、全部が壊れるならって思うと、体が勝手に止まるんだよ」




 背番号1──エースナンバー。


 それをつけた試合で、球児はすべてを失ったと思っている。


 仲間の信頼、監督の期待、父の言葉、そして、自分自身。




 ──あのとき、あの一球で、俺は終わったんだ。




 それ以来、マウンドは遠い場所だった。


 整備はできても、立つことはできない。ブルペンに足を踏み入れても、投げる気配だけで胸がざわつく。




「……俺は、止まったままなんだ」




 ふと、グラウンドのほうから誰かの声がした。




 千紗だ。




 声は聞こえなかったけれど、風祭はなぜだか、彼女の顔が浮かんだ。


 いつかの夕方、ノートを返されたときの、あのまっすぐな目。




「……もう一度、投げてみたい。もし、誰かのためにって思えるなら」




 風が、マウンドの土をふわりと舞い上げた。


 その音が、誰かの答えのように聞こえた。




 誰にも言えないこと。


 でも、たぶん──風の音だけは、知っていてくれる気がした。




 スパイクの跡が荒く残った土。折れたバット。汗が染みたベンチ。


 喧騒の余韻だけが、校舎の壁にまだ反響していた。




 風祭球児は、ひとりブルペン横の影に立っていた。


 翌日。


 ユニフォームの胸元に手を当てる。


 そこに確かにある背番号が、今も自分にとって「借り物」のままだと痛感していた。




 ──投げられなかった。


 それが悔しいわけじゃない。


 ただ、あの時、もし俺がマウンドに立ってたら──と考える自分が、何より嫌だった。




 「誰かのために」と言いながら、結局は逃げてるだけなんじゃないか。


 そんな問いが、胸の奥で何度もこだました。




 そのとき、背後からそっと声がした。




「……やっぱり、ここにいた」




 振り向くと、千紗がいた。


 日が傾き、彼女の後ろ髪がオレンジ色に染まっていた。




「みんな、反省会してる。三島くん、すっごく真剣だったよ。あと……内田くん、泣きそうになってた」




「……そうか」




 風祭はそれだけ返し、目を伏せる。




「怒ってたよ。風祭くんが投げなかったこと。内田くん、自分のせいで負けたって思ってた」




 その言葉に、球児の指がわずかに震えた。




「……投げる資格があるか、まだ分かんなかった」




 ぽつりと、吐き出すように言った。




「勝たせたい、と思えるほど、自分のことを信じられない。……誰かのために、って言いながら、結局はまた失敗するのが怖いだけなんだ」




 千紗は何も言わなかった。ただ、球児の隣に静かに腰を下ろした。




 風がふたりの前髪をなびかせる。




 沈黙の中で、球児がぼそりとつぶやいた。




「……それでも、たぶん、投げたいんだ。ほんとは」




 千紗がゆっくりと微笑んだ。




「じゃあ、いいじゃん。まだ“たぶん”でも。きっと、その先に“ほんとに”があるから」




 風が止んで、鳥の声が遠くに聞こえた。




 その静けさの中で、風祭球児はほんのわずかだけ、胸の奥の“迷い”をほどいていった。


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