精霊は名を持たない

かえりす

プロローグ 『故郷』

 エスタ村は貧しい村だった。かつては小麦の栽培で栄え、領主お気に入りの領地の一つだったが、長い事そればかり続けたせいで土地が痩せ細ってしまった。


 それからというもの小麦は育ちはするものの、以前ほどの収穫量はなくなり、他の産業も育っていなかったせいで、領主からも愛想をつかされてしまった。


「アシェル!そこはそうじゃない。剣を作るのに、そんな工程が必要だと教えた覚えはないぞ。」


「はっ、はい!父さん!」


 アシェルは村では比較的裕福な鍛冶屋の息子だった。汗が滝のように流れる夏の日も、外にいるだけで凍えてしまうような冬の日も、毎日必死に鉄を打った。


 彼の父は厳しかったが、確かな愛情をもって息子を指導した。そんな父と優しい母が、アシェルは大好きだった。


 ある日のことだった。彼の幼馴染の一人、アンの悲鳴が村に響いた。彼女は魔獣に襲われていた。


 真っ黒な狼のような風貌のその魔獣は、アンに飛びついた。その場所には鮮血が飛び散った。しかし、その血はアンのものではなく、魔獣のものだった。誰かが彼女と魔獣の間に入り、魔獣を討伐したのだ。


「よかった。傷はない?」


 彼女を魔獣から守ったのはアシェルだった。声は穏やかだったが、足は震えており、両手でピッチフォークを握っていた。


「う、うん。ありがとう。でもなんで私を助けようと思ったの。自分も死ぬかもしれなかったのに。」


「英雄も言っていた。『仲間の命を脅かすやつには、自分の命を賭けてでも立ち向かえ』ってね。」


 これは、彼が好きな冒険物語からの引用だった。


 雪の降る日も、日常は繰り返された。アシェルは十六になっていた。この頃になると彼も鍛冶の腕が上達し、父親の怒号を飛ばされることも減ってきた。


 仕事をこなせるようになった彼は、その合間に取りにいくのが日課だった。畑の収穫量が少なく、飢餓が起こるほどではないものの、皆空腹だったためだ。


 山に入り山菜採りに夢中になっていると、気づけば日が傾いていた。薄暗くなり、視界が悪くなった彼はこのへんにしておこうと帰路についた。


 山の林の中から帳の下りた村を望むと、不自然な光が踊っていた。オレンジの煙が空へ立ち上り、焦げた獣の脂のような匂いが風に乗って漂ってきた。


 遠くから可能な限り目を凝らしてよく見ると、見覚えのないボロボロの甲冑をつけた男性が、同じような服装の若者たちを数百人、率いているのが見えた。


 身体が動かない。


「仲間の命を脅かすやつには、自分の命を賭けてでも立ち向かえ」


 という一節が、アシェルの頭に何度も語りかけた。それでも身体は動かなかった。村のほうから悲鳴が聞こえると、耳を塞いだ。錯乱した彼はそのまま身体を丸め、その場で眠ってしまった。


 彼が目を覚ますと、真冬に特段厚着をしているわけでもないのに野宿をしたせいで、手足が真っ赤になっていた。


 とっさに村のことを思い出し、村を観察した。もう既に男性たちがいなくなっていることを確認し、村に向かって走った。山菜を投げ捨てて、可能な限り速く走った。汗一つかけなかった。


 村に着くと、村人たちの亡骸が、至る所に放置されている。その中には父親も含まれていた。


 涙すらでなかった。深い絶望に苛まれ、歯を食いしばった。その強さの余り、歯茎から血が流れた。それと同時に彼の目は生気を失い、酷い隈が出来た。


 幸いなことに、アシェルがアンや母親などの、女性の死体を目撃することはなかった。アシェルはそれにひとまず安堵した。


 彼は生き残りが都市のほうに逃げたのではないかと推測した。唯一の希望をそこに見出し、よろよろと歩き出した。




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