第7話 最高の朝食

 真夜中に響いた、押し殺したような嗚咽。僕の隣で、彼女が一人で流していた涙。そして、僕の目に焼き付いて離れない、スマートフォンの画面に浮かび上がった『緩和ケア』と『遺産相続』という絶望的な言葉。あの夜を境に、僕たちの日常は、静かに、しかし決定的にその姿を変えてしまった。僕は何も聞けないまま、ただ表面的な平穏を取り繕うことしかできずにいた。


 そんな息の詰まるような数日が過ぎた、ある日の朝。

 いつもより早く目が覚めてしまった僕は、階下から漂ってくる甘い香りに気づいた。それは、シナモントーストの香ばしさとは違う。もっと濃厚で、バターと卵、そしてどこかバニラエッセンスのような、まるで香水にも似た匂いだった。


 寝室を出て、階段を静かに降りる。リビングのドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 キッチンに立つ、澪の姿。

 しかし、いつもの彼女ではなかった。休日でもない平日の朝だというのに、彼女の髪はゆるやかに、そして丁寧に巻かれ、頬には淡いチークが施されている。薄いピンク色のリップが、朝の柔らかい光を浴びてつややかに輝いていた。それはまるで、これからどこか特別な場所へ出かけるための、完璧な準備のように見えた。


 彼女は、フライパンの上で黄金色に輝く何かを、慎重に裏返しているところだった。


「あ、柊くん、おはよう」


 僕に気づいた彼女は、ふわりと微笑んだ。その微笑みは、ここ数日僕が見てきた、痛々しいほど無理をした笑顔とは違う。まるで女神のように穏やかで、優しさに満ちていて、だからこそ、僕の胸は得体の知れない不安で締め付けられた。


「……フレンチトースト、作ってるの?」

「うん。柊くん、好きでしょ?一度、ちゃんと作ってみたかったんだ」


 そう言って、彼女はまた微笑む。その声色は、この家の空気ごと包み込むように、どこまでも優しかった。


 テーブルには、すでに美しい食事がセッティングされていた。焼き上がったフレンチトーストには、粉砂糖が雪のように降りかかり、溶けたバターが黄金色の川を作っている。彩りとして添えられた冷凍ベリーが、その甘さに酸味のアクセントを加えていた。まるで、休日の朝に訪れたお洒落なカフェのモーニングプレートだ。


「さ、冷めないうちに食べよ」


 促されるまま席に着き、二人で手を合わせる。「いただきます」という声も、今日はいつもより丁寧に、そして優しく響いた。ナイフで切り分けたフレンチトーストを口に運ぶと、卵液がじゅわりと染み込んだパンの甘さと、バターの豊かな風味が口いっぱいに広がった。


「美味しい……」

「ほんと?よかったぁ」


 澪は心から嬉しそうに笑うと、自分の分も食べ始めた。しかし、彼女はすぐにフォークを置き、僕の皿をじっと見つめる。


「ねえ、一口ちょうだい」


 子供のように甘えるその仕草は、いつもの彼女と同じはずなのに、今日だけはどこか違う意味合いを持っているように感じられた。僕は黙って、自分のフレンチトーストの一切れを彼女の口元へと運んでやった。彼女はそれを幸せそうに頬張ると、満足げに目を細めた。


「ねえ、柊くん」

「ん?」

「覚えててね。これ、すっごく頑張って作ったんだから。ちゃんと、覚えててほしいな」

「……ああ、覚えるよ。こんなに美味しいんだから、忘れるわけないだろ」

「そっか。……柊くんにとって、思い出の味になったら、いいな」


 思い出の味。

 その言葉が、まるで遺言のように僕の耳に響いた。僕は胸のざわめきを押し殺し、「大袈裟だな」と笑ってみせる。たまには、彼女もこんなふうに感傷的になる日もあるのだろう。そう自分に言い聞かせ、無理やり納得させた。


 朝食を終え、二人で食器を片付けている時だった。


「ねえ、柊くん、写真撮ろうよ」


 澪が、壁に立てかけてあったインスタントカメラを指さしながら言った。


「急にどうしたんだ」

「んー、なんとなく?今日の私、ちょっと可愛いから、記録に残しておきたくて」


 彼女は茶目っ気たっぷりに笑う。僕はその言葉に逆らえず、彼女の隣に並んで、スマートフォンのインカメラを起動した。彼女は僕の腕にぎゅっとしがみつき、画面の中で最高の笑顔を作る。僕も、つられて少しだけ口角を上げた。

 時間を閉じ込めるように、シャッターを切った。

 撮れた写真には、完璧に微笑む彼女と、どこかぎこちない僕の顔が並んでいる。


「あはは、柊くん、顔かたいよ」

「しょうがないだろ。慣れてないんだから」

「これ、私の待ち受けにしていい?」

「……好きにすれば」


 彼女は満足そうに何度も写真を見返すと、大切そうにその画像を保存した。そして、ふと、独り言のように呟く。


「……いい顔してる。二人とも。……大事にするね」


 その呟きは、僕に向けられたものではなく、まるで写真に写る僕たちの思い出そのものに向けられているようだった。それはまるで、いつか来る別れの日に、この写真だけをよすがにするかのような、悲しい響きをしていた。


 その日、彼女は「今日はどこにも行かない日なんだ」と宣言した。

 僕たちは、本当にどこにも行かなかった。ただ、手を繋いだままソファに座り、他愛もないバラエティ番組を眺める。時折、彼女が僕の肩に頭を預けてくる。穏やかで、しかしどこか張り詰めた無言の時間。


 午後になると、僕たちはベランダに出て、日差しを浴びた。雲の多い空だったけれど、その隙間から漏れる太陽の光は、暖かかった。


「この景色、ちゃんと覚えておきたいな」


 手すりに寄りかかりながら、街並みを眺めて澪が言う。彼女の視線は、まるでこの目に映る全てを記憶に刻みつけようとしているかのようだった。


「またいつでも見れるだろ」

「……うん。そうだね」


 彼女は力なく笑うだけだった。


 夜になり、夕食を終え、彼女がシャワーを浴びて出てきた。いつもより丁寧に髪を乾かし、肌にはボディクリームの甘い香りが漂っている。その完璧すぎるほどに手入れされた彼女の姿をじっと見つめながら、僕は、もうこれ以上見ないふりをし続けることができず、口を開いていた。


「なあ、澪。今日、なんだか変だよ」


 僕の言葉に、彼女の動きがぴたりと止まる。そして、ゆっくりとこちらを振り返ると、困ったように、でも、やはり穏やかに微笑んだ。


「そうかな?変じゃないよ。ただ……ただね、ちゃんと、ありがとうって言いたかっただけなんだ」

「ありがとうって……何の話だ?」

「全部だよ。今までの、全部。柊くんと出会ってから、毎日が本当に……宝物みたいだったから」

「……やめろよ、そういう言い方」

「なんで?」

「……お別れの挨拶みたいじゃないか」


 僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。

 彼女は、僕のその言葉には答えず、ただ「秘密」とだけ言って、悪戯っぽく唇に人差し指を当てた。その仕草が、僕たちの間の溝を、さらに深く隔てていく。


 そして、就寝の時間がやってきた。

 いつもと同じように、二人でベッドに入る。彼女は僕の隣に潜り込むと、おやすみのキスをした。いつもより、ずっと丁寧で、長いキスだった。


「……ねえ、柊くん」

「うん」

「起きたら、また朝ごはん作ってね。今度は、柊くんが作ってよ」


 それは、明日が来ることを前提とした、何の変哲もない言葉のはずだった。けれど、僕の耳には、決して叶えられることのない、悲しい約束のように響いた。僕は「ああ」とだけ短く返し、彼女を強く抱きしめた。

 しばらくすると、僕の腕の中で、彼女の寝息が聞こえ始めた。疲れていたのか、いつもよりずっと寝入りが早い。その安心したような寝息を聞きながら、僕の意識もまた、ゆっくりと闇の中へと沈んでいった。


 ――深夜。


 風が強まっている。

 ビュービューと、家の隙間を縫って吹き抜ける風の音が、僕を浅い眠りから呼び覚ました。

 隣で寝ているはずの、澪の寝息が聞こえない。

 僕は薄目を開けた。暗闇に目が慣れてくると、彼女が僕に背を向けて、ベッドの端で身体を丸めているのが見えた。眠っているのだろう。そう思おうとした。


 けれど。


 月明かりに照らされた、サイドテーブルの上。

 そこには、僕が見慣れない、小さな茶色のガラス瓶が置かれていた。

 ラベルは剥がされ、中身は空っぽだった。

 そして、その横には、一枚の白い封筒。


 ひらりと、風にあおられて揺れるその封筒には、僕が何度も見てきた、彼女の丸みを帯びた、美しい文字で、こう記されていた。


『柊へ』


 僕は、呼吸の仕方を忘れてしまった。

 時間が止まり、風の音だけが、耳元で鳴り響いている。

 まだ開かれていない、その手紙の存在が、僕たちの日常が、もう、終わってしまったことを、静かに、そして残酷に告げていた。

 僕は、まだ眠り続ける彼女に、声をかけることすらできずにいた。


後書────


時々、家族とかにありがとうって言いたくなるよね……にしてもなんでこんなもの書こうと思ったのか……

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