第16話 名もなきものに、名を

世界に異変が起き始めていた。


記録守フェリアが語った通り、

“名前を持たない存在”──**名喪(ナナシ)**たちが、各地で出現し始めた。


それらは最初、ただの霧だった。

形も意味も持たず、ただ漂っているだけのもの。


しかし次第に、“人の記憶”や“言葉”を喰い始めた。


そして、奪われた者たちは——自分の名前を思い出せなくなっていった。



《アトリウム・ゼロ》に戻ったルークたちは、

各地からの観測報告を受けていた。


フェリアが震える声で読み上げる。


「記録都市グランフィリアにて、“語彙欠損病”が急増。

日常語彙の80%が失われ、会話不能の市民が3千人超……」


リシアが唇を噛む。


「……言葉が奪われるって……こんなにも“怖い”ことだったのね……」


ルークが立ち上がる。


《命名権限》──解放中

使用可能回数:1(次発動は48時間後)


「だったら、俺が“与える”。名前を。

意味を。存在を。……奪われたなら、取り戻せばいい」


ネブラが前に出る。


「……その前に、主よ。

わたしの名を、呼んでくれないか」


ルークが目を見開く。


「ネブラ、お前……?」


「“ネブラ”は便宜上の名にすぎん。

わたしは古代語で“霧”と呼ばれてきた存在。

もともと“名を持たなかった神獣”だ」


フェリアが言う。


「ネブラ様は、記録に“観測者不在”とされる唯一の守護獣……。

誰にも定義されなかったからこそ、曖昧で曖昧で……それでも、世界を守ってきた」


ルークが息を呑む。


(……この命名で、何かが変わる。

名前を与えるとは、その存在の“物語”を始めるということ)


ネブラが目を閉じる。


「この名は、“お前が知っているわたし”であってほしい。

だから——記録継承者ルーク・アークレイン。

お前が、わたしを“誰にするか”を決めてくれ」


ルークの前に、空中に《命名入力領域》が展開される。


【対象】

《高次存在・無定義神獣(旧称ネブラ)》

【記録状態】

名:未定義/記憶:未定義/起源:未定義


ルークは、小さく呟いた。


「お前は、俺にとって……ずっと隣で支えてくれた、“夜明け”みたいな存在だった」


そして、キーボードに指を添える。


入力——


「ルーネ」


──意味:世界に光を届ける、“霧の光”。


《命名確定》


ネブラの身体が光に包まれ、輝く紋章が額に浮かび上がる。


そして、ルークの《オムニ・レコード》が更新される。



■高次名定義完了

■対象名:《ルーネ・ノクティア》

■クラス昇格:霧神獣 → 記録守護神(アーカイヴ・ガーディアン)

■親属定義:命名者 = 第一観測者(ルーク)



ネブラ、いや——ルーネが目を開く。


その瞳はかつてよりもずっと、澄み切っていた。


「……これが、“名前を持つ”ということか……。

確かに苦しみも増すが、同時に……これは、救いでもあるな」


ルークが静かに笑う。


「これからは、その名で呼ばせてもらうよ。“ルーネ”」


「ふむ、少し恥ずかしいが……気に入ったぞ」



その直後だった。


各地の“名喪(ナナシ)”たちが、わずかに形を変え始める。


記録ネットワークが自動的に反応し、観測者たちに通知を送る。


■新たな定義核を確認

■“名を失くしたもの”が、“名を与えられたもの”の波長に反応

■共鳴効果により、存在の輪郭が安定化中


(……つまり、命名は“世界を癒す”力にもなるってことか)


ルークは拳を握る。


「この力があるなら、俺はすべての名喪を、記録を、存在を……取り戻してみせる」


その言葉に応じるように、

遠く、《黒の観測者》たちがまたひとつ、動き出す。


そして、その中心にいた少女が、薄く笑った。


「……ルーク。あなたは、また名前を忘れている。


あなたが“最初に名前を呼ばれた”日を——」



彼女の名は、まだ語られない。


けれど、物語は確実に、“原点”へと向かっていた。

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