第2話

 昼休みのチャイムが鳴り終わり、午前中の授業で張り詰めていた空気が緩むと、教室は解き放たれたエネルギーで満たされた空間へとその姿を変えた。あちこちで机が動かされ、グループが形成されていく。弁当箱の蓋を開ける乾いた音、購買で買ってきたパンの包装を破る音、そして抑える気もない朗らかな笑い声。それらが混然一体となり、昼休み特有の活気あるBGMを奏でていた。


 その喧騒の中心には、やはりというべきか、高橋ハルト君がいた。転校してきてまだ半日も経っていないにもかかわらず、彼の周囲には既にクラスの女子生徒の大半と、一部の男子生徒までが集まり、幾重もの人の輪が形成されている。彼の発する一言一句に、彼女たちは花が咲くように明るい表情を見せ、時に甲高い歓声を上げる。これは群集心理におけるごく自然な現象だ。新しい刺激に対する強い好奇心と、アルファ個体とでも言うべき集団内で注目度の高い個体に、他の個体が引き寄せられるという力学。人間社会におけるこの種の行動パターンは、他の霊長類の社会構造とも類似点が多く、観察対象としては非常に興味深い。


 私はそんな教室の様子を視野の片隅に捉えながら、自分の席で静かにカバンの中から弁当箱を取り出していた。午前中の授業内容は既に脳内で整理と保存が完了している。今、私の思考領域の大部分を占めているのは、今朝手に入れた月刊『モデリング・マスター』に掲載されていた新しい塗装技法に関する考察だ。特に、ドイツ空軍機のモットリング迷彩を、いかにしてスケールエフェクトを考慮しつつ再現するか。その一点に、私の意識は集中していた。


 私が弁当箱の蓋に手をかけた、まさにその時だった。すぐそばから、穏やかで、しかし確かな存在感を伴った声がかかった。


「桜井さん」


 顔を上げると、高橋君が私の机の前に立っていた。朝のホームルームの時よりも、さらに物理的な距離が近い。対人距離、いわゆるパーソナルスペースには個人差があるが、初対面の相手に対して彼が選択したこの距離は、一般的に「個体距離」に分類される、かなり踏み込んだものだ。これは無意識の行動か、それとも意図的なものか。後者である可能性が高い。彼は、周囲の視線を一身に浴びながら、爽やかな、しかしどこか計算された完璧な笑顔を浮かべていた。


 彼が立っている位置は、窓から差し込む昼の光を巧みに背負う絶妙なポジションだ。逆光の効果で、彼の色素の薄い金茶色の髪が光の輪郭を描き、後光が差しているかのような視覚効果を生み出している。彼の持つ王子様的な印象を、こうした光の演出によって心理的に増幅させる高等技術なのかもしれない。無意識にこれを行っているのだとすれば天性のものだが、おそらくは長年の経験則から編み出された、計算された自己演出の一環だと推測された。


「こんにちは、高橋君」


「今朝は、ありがとう。君のおかげで、この学校に少し馴染むきっかけができた気がするんだ」


 彼が口にしたのは、廊下での衝突事故のことだろう。その言葉に、彼を遠巻きに見ていた教室内の何人かが、より明確にこちらに注意を向けているのが分かった。特に、彼の熱心なファンとなるであろう女子生徒たちの視線は、まるで触媒が投下された化学溶液のように、期待と嫉妬と好奇の入り混じった複雑な熱を帯び始めている。


「私には、何かを手助けしたという認識はありません。あの状況における最適な行動は、双方の被害を最小限に留めることであり、私はその論理的帰結に従ったに過ぎません」


 事実に相違はない。あの衝突は単なる物理現象の結果であり、そこに感傷的な物語性や、恩義といった意味が付与されるべきではないのだ。


「そんなことはないよ。君との出会いは、僕にとってすごく印象的だったから」


 彼の声色には、意図的に作り込まれたような優しさと、耳に心地よい響きが含まれている。相手に安心感と好感を抱かせるための最適な発声法と抑揚だろうか?

 それを彼は、呼吸をするように自然に使いこなしている。事実、彼の言葉の波動を受けた周囲の女子生徒たちの表情は、明らかに弛緩し、恍惚とした色さえ浮かべている。


 彼の話を聞きながらも、私の思考は今朝購入した模型雑誌の内容を反芻していた。

 新しい塗装技法を完全にマスターするには、適切な道具の選定と、十分な練習時間の確保が必要不可欠だ。エアブラシのニードルは〇・二ミリ以下のものが望ましいだろうか。塗料の希釈率も、通常の塗装とは異なる比率を試す必要がある。

 今度の週末に実践してみるつもりだが、失敗した場合のリカバリープランもいくつか用意しておくべきだろう。


「ところで、桜井さんは放課後はいつも何をしているんだい?」


 高橋君の質問によって、私の思考は強制的に現実へと引き戻された。


「模型製作か、関連書籍の読書をしています」


「模型?」


 彼の声に、わずかな、しかし純粋な驚きの色が混じった。やはり女子高生の趣味としては、少数派に属するのだろう。それも、私の専門とする城郭建築や兵器の精密模型となれば、さらにその希少性は増すはずだ。


「ええ。プラスチック製の組み立て模型、いわゆるプラモデルです。現在は日本の城郭建築のモデルを主に製作しています。第二次世界大戦期の戦闘機にも興味があります」


「すごいじゃないか! お城の模型なんて、すごく繊細で難しそうだけど……。もし良かったら、今度君の作品を見せてもらえないかな?」


 彼の提案に、周囲の女子生徒たちが小さく息を詰める音が聞こえた。それは羨望と、それ以上に「なぜ、あの子が?」という純粋な疑問の色を含んだ反応だった。しかし、私にとっては少々困った申し出だった。製作途中の模型は、いわば設計図段階の未完成品だ。それを他人に見せるのは、私の主義に反する。特に、まだ塗装やウェザリングといった、作品に最終的な生命を吹き込む工程が完了していない段階では、その評価は不完全なものとならざるを得ない。


「完成したら、検討します」


「そっか。分かった。楽しみに待っているよ」


 高橋君は満足そうに微笑むと、今度は手に持っていた弁当箱を掲げて見せた。


「もし良かったら、一緒にお昼を食べないかい?」


 彼が差し出したのは、購買部で一日十食しか販売されないことで有名な、幻の限定弁当だった。昼休みのチャイムが鳴ると同時に売り切れてしまうため、ほとんどの生徒にとっては目にすることすら叶わない代物だ。その特別な箱の中では、彩り豊かなおかずが、見た目の美しさと食べやすさを両立させるように、配置されていた。


「ご厚意は感謝しますが、自分の分は持参していますので」


 私はカバンからいつも通りの手作り弁当を取り出した。これは母が毎朝作ってくれる、栄養面とコスト面を完璧に両立させた、私にとっては理想的な昼食だ。今日の献立は鶏の照り焼き、ほうれん草の胡麻和え、数種類の温野菜、そして綺麗な黄色の卵焼きにご飯。タンパク質、脂質、炭水化物の三大栄養素に加え、ビタミン、ミネラルもバランス良く摂取できる。調理工程における効率も考慮されており、まさに機能的食事としての一つの完成形と言えるだろう。


「そうか、残念。それなら、ここで一緒に食べてもいいかな?」


「はい。特に問題はありません」


 高橋君は私の隣の空いている席に、ごく自然に腰を下ろした。その瞬間、周囲の視線が一斉に私たちに集中するのが分かった。特に女子生徒たちの反応は顕著で、その空間の気圧が変動したかのような、明らかな動揺の色が広がっている。


「すごく美味しそうなお弁当だね。彩りも綺麗だ」


「母の手作りです。栄養バランスが考慮されています」


「料理上手なお母さんなんだね。桜井さんは料理はするのかい?」


「必要に迫られた場合は行います。レシピという設計図通りに、材料の組み合わせて精密に再現する作業だと認識しています。温度管理、時間計測、材料の計量。すべてを正確に制御することで、常に安定した結果を得ることが可能です」


「はは、君らしい表現だ。実は僕も最近、料理に興味があるんだ。もし良かったら、今度一緒に何か作ってみないかい? きっと楽しいと思うよ」


 彼の提案に、教室内が再び大きくざわめいた。複数の女子生徒が明らかに羨望の眼差しを向けている。中にはハンカチを噛み締めている生徒さえいる。しかし、私にとっては非現実的な提案だった。そもそも彼と一緒に『いつ』『どこで』『何を』料理するというのだろうか。実現可能性は極めて低い。


「料理は一人で行う方が、遥かに効率的です。二人で作業する場合、互いのスキルレベルや手順の理解度に差異があれば、全体の作業効率はむしろ低下する可能性が高いと判断します。」


 私の淡々とした説明に、高橋君は一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに心底面白そうに笑い出した。


「ははは、なるほど。君の言うことには、いつも説得力があるな。分かったよ」


 そう言って彼は、自分の弁当に箸をつけた。



 彼との食事が終わり、高橋君が友人たちに呼ばれて席を立つとほぼ同時に、それまで固唾を飲んで状況を見守っていた親友のヒナが、興奮で顔を紅潮させながら私の席に突進してきた。


「リコ! ねえ、一体全体どうなってるのよ!?」


 彼女の声は、普段の快活さに加え、尋問官のような鋭さを帯びている。その瞳は好奇心の炎で爛々と輝いていた。


「高橋君と二人きりで、しかも隣同士でお弁当食べてたじゃない! クラス中の女子が凍りついてたの、気づいてた!?」


「彼が隣で食事を摂ることを希望し、私にそれを拒否する合理的な理由が存在しなかった。ただそれだけです」


「理由がないって、あなたねえ! あれはもう、ほとんど公開告白みたいなものじゃないの! しかも、何かすごく楽しそうに話してたし! 一体何を話してたのか、洗いざらい白状しなさい!」


「ですから、先ほども聞こえていたかと思いますが、趣味や料理に関するいくつかの質問に回答したまでです。例えば、私が城郭模型を製作していること、料理は単独作業が最も効率的であることなどです」


「嘘よ! そんな模型の話や料理の効率の話で、ハルト様があんなキラキラした天使みたいな笑顔を見せるわけないじゃない! 絶対にもっと何か、こう、ロマンチックな会話があったはずよ!」


 ヒナの興奮は最高潮に達しているようだった。恋愛に関連する事象に対して、彼女の探究心と想像力は、時に論理の飛躍を伴いながら異常なレベルにまで高まる傾向がある。


「本当に、それ以上の内容はありません。事実の陳列です」


「でも、高橋君、明らかにあなたに興味津々って感じだったわよ? 特別扱いしてるのが、はたから見てても手に取るように分かったもの」


「その結論に至った客観的なデータ、あるいは観測可能な根拠は何ですか?」


「女の勘よ!」


 ヒナは胸を張って断言した。


「それに、あなたと話している時の彼の表情が、他の子と話す時とは全然違ったもの。もっと、こう、本気っていうか……。彼の完璧な営業スマイルの奥にある、素の部分が垣間見えた気がするのよ!」


 ヒナの言う『女の勘』というものの精度については、過去の会話から分析した結果、信頼性は著しく低い、と私は判断している。彼女は恋愛というフィルターを通して物事を観察する際、希望的観測を客観的な事実と混同し、自身の感情を根拠に結論を恣意的に導き出す傾向があるのだろう。


「もう! リコはいつもそうやって理屈で返すんだから! いい? 普通、転校初日のイケメンが、特定の女子の隣でわざわざお弁当を食べるなんて、それだけで一大事件なの! しかも料理に誘うなんて、それはもう『君のことがもっと知りたいです』っていうサイン以外の何物でもないのよ!」


「なるほど。それは興味深い解釈です。しかし、彼の行動原理が、ヒナの提示する恋愛感情に基づくものであると断定するには、まだ情報が不足しています。他の可能性、例えば、単なる好奇心や、私という特異なサンプルに対する知的探求心であるという仮説も依然として棄却できません」


「サンプルって……あなたねえ! 自分のことよ!?」


 ヒナは頭を抱えた。


「信じられない……。もし私があなただったら、もう夢見心地で天に昇ってるわよ。『ええ、お料理、ぜひご一緒させてください! 私、得意なのは肉じゃがです!』とか言って、さりげなく家庭的なところをアピールするのに! それを『効率が悪い』の一言で斬って捨てるなんて! ああ、もったいない! 宝の持ち腐れよ!」


 ヒナの『もったいない』という、もはや彼女の代名詞とも言える持論が始まった。彼女は私の外見的特徴を、客観的なデータを遥かに超えて過大評価し、それを恋愛市場において活用しない私の姿勢を、社会に対する一種の怠慢であるかのように嘆く。


「ヒナの提案する応答は、相手に誤った期待を抱かせる可能性があり、長期的には双方にとって非効率な結果を招くと考えられます」


「いいのよ、誤解されたって! 恋愛はそこから始まるの! ああ、もう、リコを見ていると歯がゆいわ! 神様がせっかく授けてくれたその美しい容姿と、明晰な頭脳を、どうして恋愛という最も輝かしい舞台で使おうとしないの!?」


 ヒナの取り調べとも言える尋問は、午後の授業が始まるチャイムが鳴るまで、熱を帯びたまま続いた。



 午後の授業が始まっても、教室内のざわめきは完全には収束しなかった。休み時間のたびに高橋君は私に何かしらの話題で話しかけてきたし、そのたびにヒナや他の女子生徒たちから詮索するような視線を浴びせられた。


 すべての授業が終わり、放課後のホームルームも解散となると、生徒たちは一日の終わりを惜しむかのように、思い思いの場所へ散っていく。部活動へ向かう者、友人とおしゃべりをしながら帰宅の準備をする者。教室の喧騒は、まるで潮が引くように徐々にボリュームを下げていき、やがて静寂が支配する空間となった。


 今日の私は、転校生に関連する一連の予定外の出来事によって、少なからず精神的なエネルギーを消費していた。だから空調の効いた静かな室内で、今朝購入した雑誌を読み返し、少しだけ思考を整理してから帰ろうと思ったのだ。


 窓の外では、太陽がその日の役目を終えようとしており、空はオレンジと紫のグラデーションに染め上げられている。教室に差し込む光も、昼間の鋭さを失い、穏やかで温かみのある色合いに変わっていた。


 そろそろ帰宅するとしよう。


 雑誌をカバンにしまいながら周囲を見渡すと、いつの間にか教室には私と高橋君の二人だけが残っていた。他の生徒たちはとうの昔に教室を後にしており、彼の存在に今まで気づかなかった自分に少し驚いた。彼は自分の席で何か書き物をしていたようだが、私が立ち上がった物音に気づくと、静かに顔を上げた。


 私は立ち上がって、カバンの荷物を整理し始めた。明日の授業に必要な教科書だけを確認し、不要なものはロッカーに置いて帰る。荷物の重量は移動効率に直結する重要なパラメータだ。


 教室後方のロッカーに向かって歩いていると、背後から静かな、しかし迷いのない足音が聞こえた。振り返るよりも先に、ドン、と壁に手をつく乾いた音が、静まり返った教室に響いた。


「君は、本当に面白い人だね」


 高橋君の声が、すぐ近くから聞こえた。


 気がつくと、私は教室の後ろの壁際に立っており、高橋君が私の正面に立ち、右手を壁について私を囲うような体勢を取っていた。


 いわゆる『壁ドン』と呼ばれる状況だろうか。少女漫画などの創作物で頻繁に用いられる、恋愛感情を高めるための古典的な演出の一つだ。なるほど、これが実物か。


 私はゆっくりと彼の姿勢を観察した。右腕一本で全体重を支えつつ、私との物理的な距離を保っている。肘の角度は約百二十度。この角度では、上腕三頭筋よりも、むしろ上腕二頭筋および三角筋前部繊維に大きな負荷がかかるはずだ。てこの原理を応用すれば、より少ない力で同じ効果を得られるはずだが、この体勢は力学的には極めて非効率的であると言わざるを得ない。


 そうだ、この状況、この彼の姿勢。私にとっては馴染み深い物理学的な問題としてしか認識できなかった。力点、作用点、重心の位置、そして力学的モーメント。私の趣味である模型製作において、特に大型のジオラマで構造物の安定性を計算する上で、避けては通れない概念が脳裏で次々と展開された。


「その体勢、上腕二頭筋への負荷が大きすぎるように思えますが」


「……え?」


 高橋君の完璧な笑顔が、一瞬にして疑問符そのものに変化した。彼の表情筋が、予測不能な情報入力に対して最適な応答を生成できずにいるのが見て取れる。


「物理学的な観点から分析すると、その姿勢は壁や床への力学的エネルギーの伝達効率が非常に悪い。もっと効率の良い姿勢が存在します。体重を壁に預けるのであれば、両手をついて荷重を分散させるか、あるいは肩から接触する方が、はるかに安定性が高い」


 私は彼の姿勢をさらに詳細に分析し始めた。例えば支点となっている手の位置、体重のかけ方、筋肉への負担を最小限に抑えつつ相手の行動を制限する方法。いくつかの改善案が瞬時に思い浮かぶ。


「一例を挙げるなら、足の位置をもう少し前方に移動させ、スタンスを広げれば、重心が安定し、上体への負荷が軽減されます。現在のスタンスでは、下半身との連動性が低く、上半身の筋力のみに依存しているため、長時間の維持は困難です」


「いや、あの、これは……そういう話じゃなくて……」


「あと、壁との距離も重要なパラメータです。現在の位置関係では、あなたの腕の長さに対して、私との距離が最適化されていません。もし対話を主目的とするならば、この威圧的な姿勢は、円滑なコミュニケーションを阻害する要因となり得ます。合理的とは言えません」


 高橋君はただ黙って私の言葉を聞いていた。彼の瞳には、これまで見たことのない純粋な困惑の色が浮かんでいる。彼の脳内では、おそらく過去の成功体験データベースを高速で検索しているのだろうが、該当するケースが見つからずに処理が停滞している状態なのだろう。


「安定性を最優先に考えるのであれば、普通に立って対話する方が、双方の身体的、精神的コストを最小限に抑えられます。いかがでしょうか」


「は、ははっ……。そう、だね。君の言う通りだ」


 彼は堰を切ったように、しかし力なく笑いながら、壁から手を離した。そして適切な対人距離まで後退し、少し気まずそうに自分の腕をさすっている。


「君は、本当に……変わっているね」


「そのように評価されることは、少なくありません。規格外、あるいは異常値として分類されることが多いです」


 実際、類似した指摘を受けた経験はこれまでに何度もある。しかしそれが何だというのだろうか。物事の捉え方や考え方は人それぞれ異なるのが当然だ。私は私の論理と思考に基づいて行動しているに過ぎない。


「でも、そこが……面白い」


 高橋君は再び笑顔を浮かべた。ただし、それは最初に見せていたような計算され尽くした王子様の笑顔とは質が異なっているように感じられた。もう少し自然で、彼の素の表情に近い、非対称な笑顔だった。


「僕は君ともっと話がしてみたいんだ。もっと君のことを知りたい」


「現在、こうして話していますが、これではデータ収集のサンプルとして不足でしょうか」


「そうじゃなくて、もっとゆっくりと時間をかけて、ね。今度の休日はどうかな? どこか景色のいい場所にでも行かないかい?」


 彼の提案を聞きながら、私は今度の休日のスケジュールを脳内で再確認した。


 土曜日の午前九時から十二時までは、新しい塗装技法の実践的習得。午後は十三時から十八時まで、製作が遅延している姫路城の石垣部分のディテールアップ作業。夜は十九時から二十二時まで、購入した雑誌のバックナンバーのデジタルアーカイブ化と、関連文献の検索。日曜もほぼ同様のスケジュールが組まれている。どれも私にとっては重要なことであり、現時点でのスケジュール変更は、全体の製作進行に致命的な遅延をもたらす。


「残念ながら、先約があります。週末は研究と製作にすべてのリソースを割り当てる予定です」


「そっか……。それなら、仕方ないな。また次の機会に誘うよ」


 高橋君は少し残念そうな表情を見せたけれど、すぐにいつもの爽やかな笑顔に戻った。彼なりに何かを学習しているのかもしれない。


 それはそれで、彼という観察対象の新たな一面を発見できたということでもある。今後の彼の行動の変化について、継続的な観察と分析が必要だろう、と思った。

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