第2話

 喫茶店のマスターだという中年男性との、奇妙な共同生活が始まった。


 マスターは近くにある掘建小屋のような廃材の家を案内してくれた。

 その家の中には屋久杉のテーブルと毛布だけがあって、気まぐれなトタン板が屋根になったり、飛び降りて構ってくれとすり寄ってきたりする奇妙な家だった。


 この世界では食べるものに困らない。家で寝る時にも、緊張感がない。


 ゴミの世界で、意外にも私の衣食住は充実していた。


 服も捨てられてきたものがたくさんあるから助かっている。気のいいワンピースに陽気なジャケット。少し変態気味のブラにだけは困らせられているけれど。小学生の時に買ってもらったボロボロのスポーツブラから卒業できたのは、嬉しかった。


 朝食に、消費期限が一日切れているパンを食べる。一日切れているとはいえ、特に腐っているでもなく、まだまだ食べることができた。

 甘くて、おいしくて、それを牛乳と一緒に喫茶店で食べていると、なんだか夢でも見ているような心地がしてくる。


 もしかしたら気の狂った私が見ている幻想の世界なのかもしれないけれど、それならそれで良かった。ずっと狂っていたいとさえ思わされる。


「花音。メシが終わったら、資材置き場に出かけるか」


 なんかゲームでもありゃあ暇つぶしになんだろ、とマスターは私を気遣ってくれていた。


 マスターは優しい。私の母と義父などよりよほど。


 多分、私に亡くなった娘さんを重ねているのだ。


 それはなんとなく、伝わってくるものがあった。だけど私はマスターの娘さんの完全な身代わりにはなれない。それが少し、心苦しい。


 資材置き場に行くと、食べ物も、服も、古いテレビゲームなんかもみんな捨てられている。電気はないけれど、捨てられたものに元気があればテレビゲームをプレイすることもできるそう。


 十年以上前に流行ったテレビゲームを、喫茶店に置いてあるブラウン管テレビでプレイする。


 私はほとんど触れたことのないテレビゲームという娯楽に夢中になっていた。


 この先の身の振り方を考えなきゃいけないことは薄々わかっている。いつまでもここにいていいとも思わない。友達のことだって、気がかりだ。


 だけど、少しぐらい普通の女子中学生らしい生活を送ったって、いいじゃないか。


 この異常な世界で、私は初めて普通になれたんだ。


 しかし、私がこの世界に愛着を覚え始めた頃。この世界は私に対して選択を迫ってきた。


「これ……」


 その日の食事を求めて資材置き場に行った時、そこには一体の小さな着せ替え人形が横たわっていた。

 うごうごと蠢く物たちの中で、それだけは死んだように動かない。


 それは、母がまだ私に優しかった頃、買ってくれた着せ替え人形だった。


 幼稚園の年長ぐらいの頃だろうか。ショッピングモールに行った私は、迷子になって大泣きしていた。幸い数分程度で母が見つけてくれたけれど、なかなか泣き止まない私に、母が私の憧れの着せ替え人形を買ってくれたのだ。


 大事に持っていたそれを、いつの頃か、母は勝手に捨てた。


 それ以来、思い出さないようにしていたのに——。


「そりゃあ、『捨てられた夢のカケラ』だな」

「捨てられた夢のカケラ?」


 マスターに着せ替え人形を見せながら、こんなものがあったのだと説明すると、そんな耳慣れない言葉が返ってきた。


「『捨てられた夢のカケラ』と『夢に対する想い』の両方が揃った時、ここに居たやつは消えていく。多分、元の世界に帰ってくんだろうな」

「夢に対する想い……」


 それを取り戻してしまったら、私はこの穏やかな世界にいられなくなるのだろうか。それはなんだか、嫌だった。


 それに、私の夢、とはなんだろうか。母への思慕だの、仲のいい家族への想いだのだったら、取り戻せる気がしないので一生私はこのままだ、多分。


「家族に捨てられて、何か心境の変化とかはなかったんかい?」

「心境の変化……。正直、私は捨てられて清々しました。家族が私を捨てるなら、私も家族を捨てる。……別に帰れなくてもいい。こんなもの、私は捨てます」


 そう言って、私は右手に握った着せ替え人形をゴミの山へ向けて投げ捨てた。


 その瞬間、私の体が光り輝く。


「っ、何、これ!?」

「ああ、元の世界に帰るのかもな。あんたの夢への想いは、家族から自立する心だったんだろ。家族に捨てられるのではなくて、自分から捨てちまうことで独立したかったんじゃないか」


 マスターの言葉が、すとんと腑に落ちる。


 そっか、私は母への想いを取り戻したかったんじゃない。断ち切りたかったんだ。その最後のトリガーが、あの人形だった。


「でも、帰りたくはないです」

「若い娘さんがいつまでもこんなところにいるもんじゃないぜ。世界は広い。あんたの居心地の悪い家庭の外にも、いくらでも居場所はあるもんよ」


 そのマスターの言葉に、元の世界へと徐々に引っ張られていく身体を感じながら、心の中で救いを求める。


 きっと、元の世界に帰っても、マスターみたいな人に出会える可能性だってあるはずだ。

 家族以外の人と仲良くなったり、そこが居場所になったり。それを願って、私は元の世界へ帰る不安を押し殺した。



 ふと気づくと、私は玄関先のゴミ箱の隣で倒れていた。

 朝食をとっていなかったせいでふらついてしまったのだろうか。


 なぜか右手には、とっくに無くなったはずの着せ替え人形も握られていた。母に捨てられた時には、泣きながらゴミ捨て場を漁って探し回ったあの人形。


 けど、もうこれはいらない。


 私は母にバレないよう、人形をビニール袋に包むと、躊躇なくゴミ箱へと放り込んだ。


 母に愛されなくても、私には私に合った人との出会いがあるはずだ。そんな風に、なぜか信じることができた。


 私は靴を履いて、図書館へと向かう。家族から自立して生きていくために、今日は勉強でもしようか。

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