第2話 気づかぬまま、好きなものはすれ違う

新学期が始まって、三日目。


 ほんの数日しか経っていないのに、春川陽真の胸の奥では、何かが静かに軋んでいた。


 クラスの空気は、まだ肌に馴染まない。

 自分から話しかけることは滅多になく、誰かに話しかけられたとしても、最低限の言葉と曖昧な笑顔でその場をやり過ごす。それは、昔から変わらない癖だった。


 けれど——。


「春川くん、お昼まだ? 今日、購買のパンすごい列だったよ~」


 隣の席に座る一ノ瀬みつばだけは、まるでそれを気に留める素振りもなく、気さくに話しかけてくる。


「あ、うん……僕は弁当」


「おお、いいな。自分で作ってるの?」


「いや、母さんが」


「そっかー。私は、今日プリンだけ。朝から食欲なかったから、お菓子と飲み物で済ませちゃった」


 陽真はうなずきながら、視線を落とす。

 声をかけられるたびに、心のどこかが不安定に揺れるのを感じていた。


 誰にでもフレンドリーで、誰とでもすぐ打ち解ける彼女の性格は、クラス中が知っている。


(……俺にだけ、じゃない)


 そうわかっているのに、それでも。


 彼女の視線がこちらを向いた瞬間だけは、どこか自分が“特別”であるかのような錯覚をしてしまう。


 そんな自分が、嫌だった。


 午後の授業が終わった直後、教室の後ろでひときわ大きな声が上がった。


「なあなあ! 昨日のミスティの配信見たやついる?」


「見た見た! “選ばなきゃ進めない”ってやつ、マジで刺さった」


「あれって、“ミステイク”のセリフだよな? 今流行ってる小説の」


 男子たちがスマホの画面を見せ合いながら、興奮気味に語り合っている。


 その言葉に、陽真の背中が微かに跳ねた。


(また……俺の台詞)


 “選ばなきゃ進めない”。

 『ミステイク』の中でも、物語の転機に登場する重要なセリフだった。


 連載中の最新話で使ったばかりの言葉。配信と時期が重なりすぎていた。


「てかさ、ミスティ、マジでミステイク好きすぎじゃね? 作者ファンだろ絶対」


「ステマって言われても納得するレベル」


 冗談交じりの会話に、陽真はそっと目を伏せた。


 視線を感じた。


「春川くんも、VTuberとか見るの?」


 みつばが、会話の流れで自然に話を振ってきた。


「あ、うん……ミスティとか、ちょっとだけ」


 返した言葉が、わずかに掠れる。

 嘘ではない。でも本当のことも、言えなかった。


「奇遇だね。私もけっこう見るよ、ああいう空気感、落ち着くんだよね」


 そう言って微笑む彼女の顔は、何の裏もない。


 なのに、陽真の胸は、なぜかざわついて仕方がなかった。


 放課後。


 帰り支度をしていると、隣の席から別の声が聞こえてきた。


「ねえ、みつばってさ、真哉とけっこう仲良いよね?」


「え? そうかな? 中学のとき同じクラスだったからかな」


「ふたり、めっちゃお似合いって感じするし」


「そんなんじゃないよ~」


 何気ない会話。

 陽真は割って入るつもりなどなかった。ただ、自然と耳が傾いてしまう。


 (……なんで、こんなことで)


 荷物をまとめ、誰にも気づかれないように静かに教室を出た。


 帰宅後。

 PCを起動すると、最新話を更新したばかりの『ミステイク』に、またコメントが増えていた。


『ミスティ、またセリフ使ってた!』

『最高裁番長、繋がってる説あるな』

『展開と配信の内容がリンクしすぎて怖いレベル』


 目を細めてモニターを見つめる。

 意図していないはずの偶然が、何度も重なっている。


(……偶然、なのか?)


 頭の中で、あの声が再生される。


「“選ばなきゃ進めない”……いい言葉だよね」


 自分が書いたセリフが、誰かの口から語られる。

 それは、創作を続ける者にとって、何よりの喜びだ。


 でも、それが——推しからの声だったとしたら?


 陽真は、スマホを手に取った。


 検索欄に『ミステイク』と入力する。


 すると、ある掲示板のスレッドが目に入った。


《【考察】ミスティ、ミステイク引用しすぎじゃね?》

《最高裁番長って誰だよ。学生説あるだろ》

《名前的に男だろ。イケメンじゃなかったら許さん》

《ミスティと繋がってたらマジで尊い》


 無数の書き込みがスクロールに合わせて流れていく。


 陽真は、言葉も出ず、ただ見つめていた。


(……まさか、ここまで騒がれてるなんて)


 自分が匿名であることが、どれだけ不安定な仮面だったのかを思い知る。


 もし、学校で知られたら。

 もし、みつばにバレたら。


 考えるだけで、心臓が跳ねる。


(もし、また俺の言葉が使われたら——)


 “春川陽真”が何を言っても、誰も振り向かなかった。

 でも、“最高裁番長”の言葉だけは、誰かの心に届いた。


 名前を隠してるから、怖がらずに書けた。

 けれど、もしそれが剥がされたら——


 バレる。

 崩れる。

 全部、壊れる。


 スマホを胸に押し当てて目を閉じる。


 だが、その画面には、もう一つの通知が浮かんでいた。


《ミスティ 次回配信:明日21時〜「言葉と気持ち」》


 配信の予告文には、ただ一文。


「大切な言葉について、あなたと話したい」


 それは、誰にでも向けられた言葉。

 でも今の陽真には、それが**“自分宛て”**に見えてしまった。


(もし、また俺の言葉が使われたら——)


 バレる。

 崩れる。

 でも——


(“あの人”が、本当に俺の言葉を好きでいてくれるなら——)


 そんなことを願ってしまう自分が、

 また、少しだけ嫌になった。

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