第三章:兵器廠のオペラ

「小鳥さん、あなたはオペラはお好き?」


 アリア・ヴォルコワは、チェンバロから離れると、部屋の隅に置かれた黒い天球儀を、バレリーナのように軽やかに回しながら、ニーナに問いかけた。その指先が、モンテネグロの描かれた一点で、ぴたりと止まる。


「オペラ……ですか? あまり……」


「まあ、それは人生の損失ね。特に、この国で最も壮大なオペラを知らないなんて。それはね、肝臓という名の劇場で、毎夜、上演されているのよ。演目は、『兵器廠のアリア』」


 アリアは、ラキヤ・ネグラのボトルを手に取ると、その黒い液体を、まるで聖水を振りまくかのように、床に数滴こぼした。


「通常、アルコールという名の凡庸な役者は、ADHという、町の小さな劇団によって処理されるわ。でも、私やあなたの患者のような"ディーヴァ"の体内には、毎夜、大軍勢のアルコールが押し寄せる。小さな劇団では、到底さばききれない。そこで、国家の威信をかけて、国立オペラハウスの幕が上がるの。それが、MEOS」


 アリアは、窓際に立つと、アドリア海の夜景を背景に、まるで舞台女優のように両腕を広げた。


「MEOSのプリマドンナは、CYP2E1という名のソプラノ歌手よ。彼女は、小胞体という名の舞台装置の膜に埋め込まれているわ。面白いのはここから。慢性的な飲酒は、このCYP2E1嬢を産み出す遺伝子の指揮棒を、情熱的に振るうの。つまり、劇場は『もっと歌姫を! もっと喝采を!』と叫ぶ。その結果、この歌姫は、普通の人の二倍、私のような選ばれた人間の中では


「五倍……!」


「そう。しかも、劇場は歌姫を増やすだけではないわ。舞台装置、つまり小胞体の膜そのものを増設し、劇場の空間を拡張していくの。代謝という名の舞台を、より壮大に、より豪華にするために。これが、『兵器廠のアリア』の正体。いくら飲んでも、脳という名の貴賓席に到達する前に、この壮麗なオペラハウスで、アルコールという名の兵士たちが、プリマドンナの歌声によって、骨抜きにされてしまうのよ」


 ニーナは、ソフィア大臣の血液データを思い出した。異常に高いγ-GTPの値。それは、酷使された肝臓の悲鳴であると同時に、アリアの言う「壮大なオペラ」の、鳴り止まぬカーテンコールを証明していた。


「だから、あなたの患者は、その鉄の意志を保つために、普通の人間では考えられないほどの量の酒を必要としていた。私が、この黒い血を啜り続けても、正気でいられるのも、この肝臓のよ」


 アリアは、グラスにラキヤを注ぐと、その香りを吸い込み、恍惚の表情を浮かべた。


「でも、このオペラには、悲劇的なアキレス腱があるの。第一に、エネルギー効率が破綻しているわ。この劇場は、維持するだけで、国家予算を食い潰すほど、大量の燃料……つまりN A D P Hニコチンアミド アデニンジヌクレオチドリン酸……を必要とするの。だから、アルコールに魂を売った者は、例外なく、肉体が痩せ衰えていく」


「第二に、もっと致命的な欠陥があるわ。このCYP2E1プリマドンナは、節操がないの。彼女は、舞台に上がるものなら、何でも歌の題材にしてしまう。例えば、あなたが鎮静のために投与したジアゼパムも、彼女の歌声にかかれば、ただの雑音に変わってしまうわ。つまり……」


「……薬が、効かない……」


「それだけではないのよ、小鳥さん。アセトアミノフェンのような、何の罪もない田舎娘でさえ、この劇場の舞台に上がれば、肝臓を破壊する毒婦へと変貌させられてしまうの。酒飲みに風邪薬は禁忌。それは、このプリマドンナが、善人も悪人も見境なく、自らの悲劇のヒロインに仕立て上げてしまうからなのよ」


 ニーナは、全身の血が凍るのを感じた。自分が行っている治療は、この狂ったオペラハウスの舞台に、次々と役者を送り込んでいるだけではないのか。良かれと思った行為が、悲劇をさらに加速させているのかもしれない。


「どうすれば……。このオペラを、止めることができるのですか」


 ニーナの声は、か細く震えていた。アリアは、ゆっくりとニーナに近づくと、その冷たい指先で、彼女の頬に触れた。


「……止めることは、できないわ。一度、こけら落としをしてしまった劇場と、死のワルツを覚えてしまった魂は、決して元には戻らない。これは、悲劇というより、そういう芸術様式に、魂が作り変えられてしまったと考えるべきね」


「では、大臣は……」


「でも、嵐を鎮めるための、禁断の楽譜なら、あるかもしれない」


 アリアは、書棚の奥から、黒い革の表紙で装丁された、一冊の古いノートを取り出した。それは、彼女自身の名前がサインされた、過去の研究記録だった。


「私が、まだ退屈な真理を信じていた頃の……戯曲よ」


 彼女の声に、初めてかすかな痛みの響きが混じった。


「三年前、私の師が、同じような状態で舞台から転がり落ちてきたの。彼女は、私に音楽のすべてを教えてくれた、母のような存在だった……」


 アリアの瞳が、暗い海の底を見つめている。


「彼女は、記憶を操作するという、神をも恐れぬ新しい薬を創ろうとしていた。そのプレッシャーが、彼女をラキヤの腕の中へと追いやった。私は、気づいていたわ。でも、何も言えなかった。彼女の誇りを、孤高の芸術家の魂を、汚したくなかったから」


 アリアを鐘楼に幽閉した、呪いの正体。その幕が、今、少しだけ開かれようとしていた。


「そして、ある日、彼女は壊れた。私の目の前で、あなたの患者と同じ、醜悪なソロダンスを踊り始めた。私は、当時持っていた楽譜のすべてを尽くして、彼女の魂を調律しようとした。でも……」


 アリアは、言葉を詰まらせた。


「……救えなかった。私の音楽は、彼女の魂の不協和音の前では、あまりに無力だった。私が奏でた旋律が、かえって彼女の狂気を増幅させたのかもしれない。その可能性が、今も私の耳から離れないの」


 天才科学者を縛り付ける呪縛。それは、誰よりも深く真理を理解しながら、最も愛する魂を救えなかったという、絶対的な無力感と後悔だった。彼女がラキヤに溺れるのは、自らの肉体を楽器にして、あの時、自分に足りなかった「音」を探し続けているからに他ならなかった。


「ドクトル・ヴォルコワ……」


「でも、あなたはまだ、幕が下りる前に間に合うかもしれないわ」


 アリアは、その黒いノートをニーナに差し出した。


「私の失敗作よ。この中に、あなたの患者を救うための、たった一つの小節があるかもしれない。ただし、これはどの楽典にも載っていない、私の魂が奏でただけの音楽。信じるか、無視するか……それは、あなた次第よ、ドクトル」


 その言葉は、重く、そして美しい信頼の旋律だった。ニーナは、震える手でそのノートを受け取った。それは、一人の天才が、その半生をかけて血で書き記した、魂という劇場の、あまりにも詳細な舞台設計図だった。

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