第1章 記録されない車編
一章
1.最後の日常
***
俺は、人間じゃない。
何度も、何十回も聞かされてきた言葉だ。
けれど一番最初にそう言い切ったのは、他ならぬ“俺自身”だった。
ただの——魔族だ。
***
西暦二〇〇〇年。
世界のどこか、誰も位置を特定できない土地で、“それ”は静かに始まった。
生まれた瞬間から全身に奇妙な痣を持つ子どもたち。
初めは医者たちも「新種の遺伝疾患」程度に受け取っていた。だが同じ痣を持つ乳児がアジアを中心に連続して確認されると、世間は彼らに一つの名を投げつけた。
【魔族】——。
その名は、いつしか恐怖と偏見の象徴に変わった。
ニュースは連日、魔族の特集を組み、ワイドショーは見世物のように扱い、ネットの匿名の大衆は“異物”だと笑った。
誰も彼らのことなど知らないままに。
***
──クソみたいな特集だ。
俺はリモコンを投げるように置いた。
子どもの頃から、親の顔よりも見つめてきた番組だ。飽きたなんてもう通り越して、もはや胃が痛くなる。
テレビの中では、また誰かが“魔族問題”を語っている。
どの国が最初だの、どの遺伝子が原因だの。
白衣の専門家たちが揃って、もっともらしいことをぺちゃくちゃ語る。
——何も知らないくせに。
ニュースが強盗事件の映像に切り替わった瞬間、俺は電源を落とした。
部屋に静寂が戻る。
古びた六畳の空間は、テレビが消えると驚くほど狭く感じた。
クーラーを止め、窓を開ける。
夏の残り香を含んだ湿った風が、頬を撫でるように入ってきてはすぐに遠ざかっていく。
そのときだった。
──笑い声。
外から誰かの笑い声がかすかに聞こえ、反射的に俺はカーテンを閉めた。
……関係ない。もう、俺には。
俺を捨てた親が今の姿を見たら、どんな顔をするだろう。
愛だの逃避行だのほざいて俺を置き去りにした、あのふざけた二人が。
“魔族による治安悪化”なんて言われる世の中じゃ、子ども一人消えるくらい珍しくもない。
そう思った瞬間——
ピンポーン。
ピンポーン。
静まり返った部屋に、インターホンの音だけが鋭く刺さった。
宅配は頼んでいない。
セールスなら即通報。いや、この魔族街にセールスが来るわけもないが。
ゆっくりとドアを開けると、見覚えのある顔がそこにあった。
「……なんだ、おまえか」
セールスより厄介なヤツが来た。
「なんだとはなんだ。わざわざこんなスラムみたいなアパートまで来てやったんだぞ」
「実際、ほとんどスラムみたいなもんだろう」
京田カイ。
中学からの腐れ縁で、唯一“俺を人間扱いしてくれる”奇特な奴だ。
陸上で鍛えた体を、わざと隠すようにブカブカの制服の下に押し込んでいる。背は平均よりも少し低い。指摘するといつも『これから伸びる予定だから』と胸を張るが、中学から一ミリも伸びてない。予定は未定だ。
「わざわざ、すまんな」
自然とそんな言葉が漏れた。
「……ヒイロにしては素直だな。なんかあったか?」
「毎日片づけ手伝ってもらってるからな。ありがたいとは思ってる。腹立たしいけど」
「片づけしないとすぐゴミ屋敷になるくせに」
「ゴミ屋敷じゃねぇ。俺にとっての桃源郷だ」
「見た目が女だからって油断してると、いつかマジで勘違いされるぞ」
「うるせぇ、早く入れ」
もし今の姿を誰かに見られたら、確かに誤解される。
上はパーカー、下はスカート。鏡に映るのは、どう見ても“少女”の顔立ちだった。
……理由があったはずだ。
でも、思い出そうとすると、記憶がどこかでふっと切れる。
いつからだ?
中学か? いや——もっと前だ。
「おい、ヒイロ? ぼーっとしてどうした」
京田の声で現実に引き戻された。
「ああ……悪い」
その日も特に事件は起きなかった。
いつものように部屋を片づけてもらって、京田は「早く学校来いよ」と言い残して帰っていった。
ほんの、なんでもない日常。
だけど——
2055年11月21日。雨の日。
それが俺にとって最後の“日常”になった。
***
2055年11月22日。午前七時。
いつも通りの朝だった。
洗面台の鏡の前で寝癖を指で整え、窓を開ける。
ひんやりとした秋の空気が肌を撫で、遠くで始まったばかりの通勤のざわめきが微かに届く。
昨日まで降り続いた雨が嘘みたいな快晴だった。
「……たまには散歩でもしてくるか」
呟きながら適当にパーカーを引っかけ、外へ出た。
陽射しが眩しくて目を細める。
雲はどれも薄く、今日が平穏であると世界が保証しているようだった。
――まさか、この散歩で命を拾うことになるなんて、思いもしなかった。
***
昼前。
普段は人影の少ない裏通りが、日曜のせいかいつもより賑わいがあった。
この街は、行き場を失った魔族が集まる魔族街。
警察も深く介入しない治安の悪さで、人間は滅多に寄りつかない。
そんな通りを歩いていると、一組の人間の親子が視界に入った。
中年の夫婦と、その間に挟まるように歩く高校生くらいの少女。
黒髪が柔らかく揺れていた。くすんだ街に似つかわしくない、清潔な制服。
俺はぼんやりと、その“他人の日常”を眺めながら歩いていた。
信号が青に変わる。
三人が横断歩道へ踏み出した――その瞬間。
白い軽トラックが、赤信号を無視して轟音を上げながら突っ込んできた。
タイヤが路面を削る音が耳を裂く。
体が勝手に、走っていた。
助ける理由なんてない。
俺は善人でも救世主でもない。
けれど——あの瞬間だけは違った。
少女の背中を見たとき、
どこかが、確かに“似ている”と思った。
理屈も、根拠もない。
ただ、胸の奥に喰い込むような感覚だけがあった。
次に気づいたとき、俺の体は宙に投げ出されていた。
***
――目の前に白い天井。
鼻をつく消毒液の匂い。規則的に鳴る機械音。
ああ、トラックに撥ねられて……ここに運ばれたのか。
体を起こそうとしたとき、膝のあたりに柔らかい重みを感じた。
そっと視線を向ける。
長い黒髪。制服の襟元に淡いクリーム色のカーディガン。
あの少女が、俺のベッドに俯せるようにもたれ、すやすやと寝息を立てていた。
「……なんでここに?」
俺のベッドで? いや、その前に――
そもそも病院が俺を受け入れたこと自体が常識ではありえない。
俺は人間じゃない。
魔族と人間の混血——“半魔”だ。
そんな俺を、どこの病院が堂々と受け入れるというのか。
疑問が頭に浮かんだちょうどその時。
「おい! 大丈夫か、ヒイロ!!」
聞き慣れた声が病室のドアを叩き割る勢いで飛び込んできた。
京田カイ。
息を切らせ、俺を見るなり眉を下げて安堵した表情を作る。
「……やっぱりお前か」
「何だよその言い方。うちの病院以外に受け入れてくれるとこがあるか。じいちゃんに頼んで、特別に手続き回してもらったんだぞ」
そうだ。カイの祖父はこの病院の院長だった。
「……助かったよ。恩に着る」
「素直じゃねえな、ほんと」
言いながら、カイは少女を顎で示した。
「その子、ずっと付き添ってたんだ。ヒイロが庇ったあと、泣きながら救急に一緒に来たらしい」
「寝てるけどな」
「まあ、そこは疲れただけだろ」
俺は小さく息をついた。
「……で、あの子の両親は?」
「無事。骨は折れてるけど、命に別状はない。今は別室で治療中」
「そうか。で、俺を轢いたクソ野郎は?」
カイは言葉を濁した。
「……まだ見つかってない」
「は?」
「事故直後に逃げた。トラックだけ残して、運転手は誰も見てないってさ」
「つまり轢き逃げ、か」
「そういうこと」
俺は天井を見つめた。
助けた相手の名前すら知らないままで、このざまか。
そのとき。
膝の上の重みがわずかに動いた。
黒い睫毛が震え、少女の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「あ……す、すみません……! 寝ちゃってて……!」
声も仕草も小動物のように控えめで、頬を赤くしている。
どうやら本気で看病していて、そのまま眠ってしまったらしい。
「おはよう、リゼちゃん」
カイが軽く笑いながら言う。
リゼ――
これが彼女の名前か。
「僕はここの院長の孫、京田カイ。で、こっちは友達の氷魁ヒイロ」
俺は軽く会釈をする。
少女は慌てて背筋を伸ばした。
「きょ、今日野リゼです! あの……私のせいで大怪我を、本当に……ごめんなさい!」
「骨が数本いっただけだ。すぐ治る」
「せっかく綺麗な顔なのに……」
すると、リゼは続けて、
「ところで、あの、“ひかい”って、どう書くんですか?」
唐突に来たな。
カイは横でニヤニヤしている。
「“氷”に、“花魁”の“魁”。それで“ひかい”だ」
「な、なるほど……! えっと、私のは“今日”に“野原”の“野”で――今日野リゼと言います!」
リゼ。
それが、俺と彼女の出会いだった。
***
「じゃあ私、お母さんとお父さんのところに行ってきます。失礼します」
今日野が軽く頭を下げて部屋を出ていき、扉が閉まると同時に、室内には俺と京田の二人だけが取り残された。
――静かだ。やけに。
この機会に、胸のどこかでずっと引っかかっていた疑問を口にする。
「なあ、おい……俺と彼女、どこか似てると思わないか?」
「ん? ヒイロとリゼちゃんのこと?」
――“リゼちゃん”、か。
すげぇよこいつは。本当に人と距離を詰めるのがうまい。
そういえば中学の頃、最初に俺に話しかけてきたのも京田だった。
あれがなければ、俺はとっくに人間不信のこじらせ野郎になってたに違いない。
「ああ、そうだ」
「そうだなぁ……ヒイロは“可愛い”っていうより“美形”寄りで、リゼちゃんは真正の可愛い系。性格も真逆。ヒイロは無気力で面倒くさがり、リゼちゃんは誰にでも礼儀正しく優しい。言葉遣いも綺麗。――はっきり言って、全く似てないね」
「だよな……」
胸の奥で、何かがざらりと動く。
「もしかして、『なんでヒイロがリゼちゃんを助けたのか』って話?」
まるで内心を覗かれたようで、一瞬呼吸が止まった。
俺は平然を装い返す。
「まあ、そうだな」
「答えは簡単だよ。ヒイロは優しいんだよ」
「……は?」
唐突な言葉に、思わず素っ頓狂な声が漏れた。京田は笑いながら続ける。
「ヒイロ、自分では自覚ないかもしれないけどさ。他人が困ってると、結局助けちゃうタイプなんだよ」
「俺が彼女を助けたのは、ただの優しさだと?」
「そう。でも、その“ただの優しさ”を実際に行動に移せる人間は、そう多くないんだ」
――優しさ。
その言葉が、胸の奥に刺さったまま動かない。
そんなもの、俺には似合わないし、縁遠いと思っていた。
これ以上続けても、俺の中が掘り返されるだけだ。
話題を変える。
「そういえば、犯人はまだ捕まってないんだろ? ナンバーから特定できそうなもんだが」
「それがね、ナンバーが映ってないんだよ」
「どういうことだ? いまどきカメラがない場所のほうが珍しいだろ」
「なんだけどさ……ナンバーだけ影になってたり、逆光で飛んでたりするらしい」
「……そんな都合のいいことあるか?」
神にでも守られてるみたいな犯人だ。
まあ、でも、俺にはもう関係ない――そう思った矢先。
病室の扉が乱暴に開いた。
「氷魁ヒイロ。お前に話がある。京田さんも、ご一緒に」
警察だ。
“氷魁ヒイロ”。
その呼び方に含まれた“魔族”という烙印が、嫌でも突き刺さる。
俺は骨が折れてるくらいの重傷なんだけどな。
京田に肩を貸してもらって立ち上がると、警察は一瞬苛立った視線を寄越したが、
京田の顔を見るなり何も言えなくなった。
――京田の家の影響力は、それだけ強い。
案内されたのは、さっきより少し広い部屋だった。
そこには今日野と父親、そして病院のベッドに横たわったまま目を覚ました母親の姿もある。
刑事は二人。若い新米と、五十代の落ち着いたベテラン。
ベテラン刑事が穏やかながら張りのある声で口を開く。
「昨日の轢き逃げ事件について、少し話を聞かせてもらいたいのですが」
「え……? 轢き逃げ……?」
今日野の声が震えた。
その顔が、一瞬で青ざめていくのがわかった。
動揺を隠せない二人に、刑事は淡々と告げた。
「犯人はまだ捕まっていません。
これから、現場近くの防犯カメラの映像を三つ流します。気づいたことがあれば自由に述べてください」
刑事がリモコンを操作すると、テレビの画面が明るくなり、最初の映像が流れはじめた。
――トラックの正面カメラ。
事件直後のものなのだろう。俺たちをはねた直後、道路の端にほんの一瞬だけ寄って、それから逃げるように走り去る。
ナンバープレート部分は完全に影に沈んでおり、識別は不可能だった。
二つ目の映像。
狭い路地を抜けて大通りへ出る瞬間の映像だ。
角度的に、今度こそナンバーが見えるはず――そう思ったが、プレート部分が白い光に呑まれている。
……逆光にしては不自然だ。光の方向が道路照明とも太陽とも一致していない。
三つ目の映像。
大通りを走るトラック。
周囲の車両はどれもナンバーがはっきり映っているのに、そのトラックだけ――
プレートだけが、“存在を消されたように”真っ白の空白だった。
まるでここだけ現実から浮いているような、そんな異様さだった。
刑事がやはり、普通じゃないと呟くのが聞こえた。
リゼも信じられないという表情をしている。
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