第35話 将軍を支えた名補佐役ーー老中・水野忠之

江戸城・老中詰所の一間。

その日、吉宗は老中の一人、土屋政直に呼び出されていた。


「上様……これまで、わたくしなりに務めてまいりましたが――将軍代替わりより時も過ぎ、新たな御政道の形も見えはじめております」


政直は静かに頭を下げ、続けた。


「私にできることは、すでに果たしました。ここから先は、上様のお考えに沿う者をお側に置かれるのが良きかと存じます。老中職、このたびお返し申し上げたく……」


不意をつくような申し出に、吉宗は一瞬言葉を失った。

だが、やがて静かに頷く。


「……そうか。苦労をかけたな、政直。そなたの忠義、忘れぬ」



「新たな老中か……」


吉宗は小さく呟いたあと、静かに続けた。


「紀州の者ばかりを登用しては、反発を招く。老中には、中央から適任を選ぶとしよう」


そして、ひと息つきながら、


「……しかし、誰がよいかのう」


「久通、新たな老中、誰が良いと思う?」


吉宗は、机の前で腕を組みながら静かに呟いた。


「久通、新たな老中、誰が良いと思う?」


傍らに控えていた久通が、一拍おいて口を開く。


「私も、紀州の者以外はあまり詳しくは存じ上げませぬ。ただ――」


少し目を伏せ、思い出すように続けた。


「以前、土屋殿が話しておられました。水野忠之殿は、実直で義に厚い方だと。人柄も信頼に足ると、ずいぶんお褒めでした」


吉宗は目を細め、静かにその名を繰り返した。


「……水野忠之、か」


吉宗は静かに名を口にした。


「若年寄を務めておるものだな」


その声音には、探るような響きが混じっていた。


しばし沈黙ののち、吉宗はふっと立ち上がる。


「――名前と役職だけでは、人の本質は見えてこぬ。久通、少しばかり出かけてくる」


「……まさか、お忍びでございますか?」


「うむ。ついでに忠相も呼んでおけ。目利きの目は多い方がよい」



「上様、今日はどういったご用件でしょうか?」


訝しげな顔で大岡忠相が問いかける。

突然の呼び出しに戸惑いを隠せぬまま、吉宗の前に正座していた。


「うむ。少しばかり、人を見に行きたくてな」


「人……でございますか?」


「水野忠之という男を知っておるか?」


忠相の眉がぴくりと動く。


「若年寄をお務めの方ですね。面識は浅うございますが、評判は耳にしております。確かに、堅実で実直なお方と……」


吉宗はゆっくりと頷いた。


「この目で確かめておきたいのだ。将軍の座に就いてなお、こうして出歩くのも、案外悪くはない」


「まさか……お忍びで?」


「ああ。自らの目で見ておかねばな。――手を貸してくれるか?」


忠相は溜め息をひとつ。

だが、顔はどこか楽しげだった。


「……承知いたしました。上様のお供、喜んで」



江戸城・西の丸詰所近く――


静まり返った廊下を、二人の影が音もなく進んでいた。

吉宗は質素な小袖に袴を着け、町場の中堅武士のような出で立ち。後ろに従う忠相も、同様に簡素な装いである。


「ここが若年寄の詰所か……」


「はい。今日は城内の不正に関する訴状の吟味があるとか」


柱の影から覗き見るように、詰所の一室を見やる。

中には数名の役人と水野忠之がいた。彼は訴状を手に取り、一字一句を丁寧に読み進めていた。


「……この金の流れ、どうにも不自然だ。町奉行所と連携をとり、もう一度調べ直せ」


一見冷静な口調ながら、声には確かな芯がある。

部下に言葉を投げるその背筋は伸び、動きには無駄がない。


「なるほど……よく通る声だな。指示も的確。腰も低く、威圧感はないが、場の空気は締まっている」


吉宗は小さく呟いた。忠相がうなずく。


「見ての通り、実直なお方です。訴えの扱いも丁寧で、贔屓をせず、理をもって裁く――私もかねてより一目置いております」


「うむ……我が目で見て、ようやく腑に落ちた」


その時、水野が一人の役人に茶を差し出されるのを断り、代わりに紙束を手に取った。


「今のうちに、次の月番の報告書にも目を通しておくか」


「……働き者でもあるようだな。これは頼りになりそうだ」


吉宗は静かに目を細めた。



翌日


「水野様、上様がお呼びです」


側近の声に、水野忠之は一瞬だけ眉をひそめた。呼び出しの理由に、思い当たる節がない。


「承知いたしました」


静かに返事をして、足を運ぶ。


江戸城・中奥。将軍の御座所に通された忠之は、慎ましく頭を下げた。


「上様のお召しにより、参上仕りました」


「おお、忠之か。忙しいところをすまぬな」


柔らかな口調で告げる吉宗。その表情には、どこか親しみがにじんでいた。


「其方に頼みたいことがあってな。――老中を、任されてはくれぬか」


一瞬、時が止まった。


「……老中、でございますか?」


驚きと重みを噛みしめるように忠之は呟く。


そして、わずかな沈黙ののち、深々と頭を下げた。


――不偏不党、忠恕奉公の精神を第一に、謹んで、お受けいたします


吉宗はゆっくりと頷き、穏やかに笑みを浮かべた。

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